コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 一握の砂2010. 3.31

東海の小島のいその白砂に
われ泣きぬれて
かにとたはむる

いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと握れば指のあいだより落つ

頬につとう
なみだのごはず
一握の砂を示しし人を忘れず

こういう悲しい寂しい歌をよく詠めるものだと感心するが、たしかに傑作である。

石川啄木の歌を読むと生涯に一人も子を産まなかった筆者の父方の祖母を思い出す。
とても寡黙な人で数年間寝たきりだった夫を亡くしてからは母と共に家事を黙々とこなし、夜は二階の自室に一人この啄木の歌集を少年少女文学全集で大きな拡大鏡で畳にすわり腰をかがめて読んでいたのを思い出す。

年中全く飾りというもののない、いつも灰色の地味な衣服や着物をその痩せたカラダにまとい、静かで穏やかな頬笑みをその温和な顔にたたえて音もなく家の中を動いていた。
自分の為には一円もお金を使わず、年金の殆どを貯めて数百万円をポンと地元の神社の改修費に寄付として差し出したり、筆者の結婚式には新婦にと50万円入りの茶封筒をソッと手渡したりと人や社会の為には大変な気前の良さと自己犠牲的な心の人であった。
いかにもかよわく華奢な肉体とは裏腹に、明治生まれの何かしら強靭で芯の強さを秘めた神官の妻らしい廉潔でつつましやかな女性であった。

家族の団欒でも食事中殆ど口を開かず、食前にも手を合わせ黙々と箸を動かし、決して差し出がましい言葉を口にしたことも無かったが、一度だけ筆者の離婚騒動の時には「ゆるしてあげなさい」と静かに、ごく控え目に懇願しただけであった。

ついでに付け加えるなら母方の祖母は8人も子供をもうけ、家事は使用人にまかせて一切せず、着物やぜいたく品を買い集め、筆者にはお金を一円もくれたこともないのに、従業員の態度や家の調度から何から何まで口を出して孫の私としょっちゅう衝突し言い争い、自分のカラダの不調のことで始終ブツブツ言ってまるでこの世のエゴイストのインストラクターのような人であった。
まるで真逆の祖母二人で上の采配の見事なまでのパラドックスによる平準化を見るようで興味深い。
ちなみに筆者の父親は養子である。

話を戻すが、この「一握の砂」という石川啄木の代表作「我を愛する歌」の抜粋が章頭に掲げた歌である。

25年前に76才で他界した祖母の愛読した文学作品を同じ本で一人静かに拾い読みしていると不思議に心がやすらぐ。
当時の祖母の孤独と悲しみがしみじみと胸に迫ってくる。

大海にむかいてひとり
七八日(ななようか)
泣きなんとすと家をいでにき

啄木自身が一握の砂を詠んだのは22才頃で東京に上京し、無収入の生活苦を家族と離れて暮らす寂寥と不安とで自殺を考えたこともあるような苦しい時期であるらしい。
祖母も同じ明治生まれ。
同時代を生き、随所に共感することもかなりあったかも知れない。
今の時代、即ち平成の大不況は意外に長引きそうであるし、人々の暮らしに少しずつ深刻な貧窮の影を落としはじめている。
そんな折はこの一握の砂はひとときの慰めになりはしないだろうか。
不幸な人はさらに不幸な人を知るとホッとさせられるという理屈で・・・。

孤独な青年が海に向かい、死を思いながら果たせず涙にくれながら歌を詠む・・・。
そんな光景がありありと目に浮かばせられる歌集である。
砂山の砂に腹ばい
初恋の
いたみを遠くおもいいづる日

大という字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来たれり

やっぱり死ぬのはやめにしよう
心配しなくても最終的にはみんな死にます
多少の時間差はあってもみんな一緒に死にます

私達の富も栄光も生命ですらもただの一握の砂なのかも知れません。
それは握ろうとすると簡単に指から滑り落ちて広漠とした海浜の砂々と混じり跡形もない。
そう考えるとまるで人間の命そのものであるなぁ・・・。

ありがとうございました
濱田朋久



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