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■ 寂しくて死んでしまいそう | 2010. 3.19 |
ウサギは寂しいとエサも食べず死んでしまうらしい。 これを嘘だと言う人もいるが、「否」と堂々と断じることもできない気がする。 昔は「寂しい女性は肥る」という定説があったけれども、最近は本当に寂しい女性は痩せておられる。 何も拒食症や摂食障害でなくても、心の底から寂しいと感じるとヒトはモノを食べれないのではないかと思える。 まず食欲が湧かなくなるのだ。 そのかわりよく水物を飲む。 これは心理的には母乳の替わりだ。 タバコを喫ったりペットボトルの水やお茶を飲んだり、酒を飲んだりするのは寂しさの感情表出行動と思えるが自覚している人は少ない。 孤独と寂しさはちがうのであるけれど、多くの人はそれらを同視する。 「孤独は賢人をつくる」というのはデンマークの哲学者セーレン・キルケゴールの言葉であるが、人間の精神を練磨し成長させるのに孤独と敗北ほど良いモノはない。 ・・・とは言え心の底から湧き上がる寂寥は人の思考力を奪い困惑させ、不安におとし入れ異常な行動へと駆り立てることもある。 そしてそれは「寂しさ病」たとえば気管支喘息とか認知症とかヒステリーとか摂食障害とか糖尿病とか数限りない多種多様の病気の原因ともなり得るのだ。 寂しさは孤独と無関係と先述したが、真実はある前提があれば多いに関係があると考えて良い。 その前提の最大のものは「愛」とか「愛欲」というものである。 つまり「愛する人」「愛する力」「親しむ力」のない人には孤独感や「寂しさ」は生じない・・・ということである。 もっと言いつのるならば死んでしまいたいほどの「寂しさ病」の人々との交流や交遊をとおして寂しさは癒やす人など客観的に眺めていると何となく愛おしくなってくる。 だいたい酒飲みの人の本性は善良な人が多いように思える。 とにかく寂しがり屋なのだ。 寂しがりということは人恋しがりと言える。 つまり「人を求めている」のだ。 人を求めることが人間愛の証にはならないけれど、少なくとも冷たい人間ではなさそうである。 或る夜の店の女性に私生活の現状を聞かされた時に「それは良くない」とエラそうに伝えた内容というのはこの寂しさの癒やし方についてである。 その女性は男友達もいっぱいいて、ペットも何匹も飼っていて私生活がチットモ寂しくないのであるので、それでは「寂しい人」がいっぱい集まる「夜の店」はいかにもそぐわない生活ぶりと思えるのであるが、その理由のひとつにまず「人を求める気持ち」が少ない為にホスピタリティー(おもてなしの心)というサービス業で最も大切な心のエネルギーの漏出というものと満ち足りた私生活によって生じたなカワイソウな寂しい人への共感性の低下というものが問題であるとお伝えしたのだ。 人間はみんな寂しい。 どんな境遇であれ寂しい。 全く寂しくない人は自分との折り合いがやたらに良いか、愛し合う恋人や配偶者がいるか、心のやたら冷たい人か感情の鈍麻した人と思えるので、あまりお付き合いしたくない人物と思えるし、少なくともサービス業に向いている人達とは思えない。 映画や文学やその他のさまざまの芸術は寂しい人を対象にしているとヒットするような気がする。 それらはペットややさしい配偶者のように寂しい人を極めて即効的に簡便に癒やしてくれる。 ありがたいことだ ありがとうございました M田朋久 |