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■ 医療というもの | 2010. 1. 1 |
「非常識の医学書」という新刊書を読んだ。 3人の或る分野での研究者、専門家のドクターの新刊の書物である。それも興味深い内容で、結構楽しめたしタメにもなったが日頃考えていることや、疑問も多く、ここに少し論評試みてみたい。 最初に断っておくが、他人の書いた本を批評批判することは、誰にもできることで少々お下劣でもあるが、そのことを承知した上で恥を忍んで敢えて書き綴ってみようと思う。 だいたいお医者さんの書いた本というのは、こと医学や健康については面白くないものが多いが、その理由のひとつに「バランスに欠ける」とか、「一辺倒」というか「或る考え方に固執している」というものが多いせいかと思える。 例えば、漢方の専門家は漢方一辺倒でありやすく、脳神経の専門家は脳中心で、心理の専門家は心理的側面からしか、考えないという風なものである。入り口も出口も同じの家みたいなものだ。入り口も出口もいっぱいある百貨店みたいな、例えば「家庭医学」というものも逆に或る意味「一辺倒」である。 少し内容を読んでみるとわかるが医学というレベルを決っしてでていない。 この手の書物を読んでいくと、時々医学と健康は無関係ではないかと思える時がある。 或る特定の理屈や理論を少しだけ、実践に成功したので、それをいかにも誠しやかに、述べ立てるのは或る意味でペテンではないかと思えるのだが、こういう風に多くの人は騙される。 その目新しさと簡便さ、わかりやすさゆえに・・・。 この書物からの例を上げると 曰く「身体を暖めればうつ病にならない、治る」とか・・・。 これはいかにも信じ難い。 「うつ病の助けになるのは家族しかいない」 こんなことは絶対にない。 有害な家族関係といるのは世の中にゴマンとある。ことうつ病については有益な家族よりはるかに多いように思える。 モチロン家族しか頼りにならないという不幸な人もいる。 我がクリニックでは、うつ病の方が何人も入院しておられるが「家より病院が良い」という人が圧倒的に多い。 うつ病というのは、その発生源として、「家族」が原因ではないかというケースがかなりある。 双極性障害(そううつ病)というのもあって、これらの人々は薬物以外で治すのは至難である。それこそ体を暖めるだけで治る」という説を俄かに信じることはできない。 「薬なしで・・・」というコンセプトを持っておられるドクターも多いがこれにも少しく不安を感じる。 殆んどの慢性の病気の場合、特に生活習慣病の例では、モチロン生活習慣を、その本人の努力によって180゜改善し、その成果として「薬なし」という状態を得たならば、誠に喜ばしいことではあるが、禁煙指導と同様に生活習慣を完璧に変えることの出来る人はそれ程多くはない高血圧を例にとれば、生活習慣を考えるという指導や努力も大切であるが「好きなものを好きなように食べたい」「運動なんか大嫌い」なんて言う人には一体どうやって血圧を下げれば良いというのだ。 選択枝のひとつとしての薬物療法というのは、今のところ最も安全で手っとり早い方法であるのだ。 糖尿病しかり、喘息しかり、うつ病しかり、癌しかりである。 「薬を服む危険より薬を服まない危険が大きい」 ということもあるというのが筆者の考えである。 だから安易に「薬なしで・・・と患者さんに言えない。 すべての薬は「生活改善薬」であり「延命薬」と捉えている。 自然な状態で人体は老いて死んでいくのであるから、医学の出来得ることの大きな課題というものを少し総合的に考えてみるとこの2つの価値に尽きるのではないか・・・と思える。 モチロン時期が来たならば死にゆく者への働きかけとして医学医療としての位置づけもできるけれど・・・ 痛みのある時の、鎮痛剤、感染症の時の抗生剤。不眠の時の、睡眠剤、うつ病の時の、抗うつ剤、生命にかかわる癌ともなればその主たる治療目的はまず延命であり、痛みやその他さまざまな生活上の不具合を改善する為の働きかけが医療そのものであり、その為の学問が医学である。その治療の選択枝としての薬物とか放射線とかの手法には決っして侮れない力を備わっている。 「延命治療」という言葉も今は何故か恥ずかしい響きを持つが何か、恥ずべきものではなく、もともと医学治療そのものであるのだ。 こうして考えていくと「ホスピス」などという存在は、結構「いかがわしい」ものに思える。 一般人や世間では何かしら尊く有難い施設と考えておられるが、そんなことは決っしてないと思う。 最初から、敗北宣言をして試合に挑む、ボクサーに用意された、リングのようなもので、そのモノの悲しさは半端ではない気がする。 そもそも、昔の開業医というのはホスピス、終末期医療を涙ぐましい努力と忍耐と巧妙に織り込まれた愛と思いやりとでもって、これまで自然な形で行われてきたのである。 医療とか「医学」というものが専門家というものがあるいは自分の理屈に強いこだわりを持ち人々を間違った方向に持っていこうとするあやしい「一辺倒」主義者が堂々と世間を跋扈していることにエラそうに警鐘を鳴らしておきたくて筆を執った次第である。 ありがとうございました。 濱田朋久 |