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■ 世界観について | 2009.12.31 |
今夜は大晦日だ。殆んどの日本人はお正月の元旦、すなわち、1月1日は世界中でただ一日と思っているような気がするが、この日は所謂西暦の正月で、キリスト教かそれに派生して存在するイスラム教、ユダヤ教などに由来したもので、実際に日本国の正月元旦はというと、旧の正月であろうと思えるが当然ながら詳細不明である。一年が365日であることに異議を唱えるつもりは毛頭ないが、実際にこの周期で一年間の季節が廻っているようなので、今更ながら人類の英知というものに驚嘆し、畏敬の念を持つ。一体誰が計算したのであろう。 「地球が丸い」即ち地動説を唱えたのはガリレオ・ガリレイということになっていて、コロンブスとかマゼランが生みを渡り実証してみせたが、実際には、2200年前に、恐らくギリシヤ、ローマ時代と思えるが、エラトステネスが、太陽光の角度を経度の同じシエネとアレクサンドリアの両地点で同時に測定し、地球の周囲を4600km(実際は4000km)とハジキ出している。大したものだ。 当時から大地が球体あったことを知的な人々は知っていたのである。 昔の映画を観ると、大概、本編の上映の前に、ニュース映画があって、この時にこれまた大概地球の回転する映像が流されて、人々の世界観に何らかの影響を与えようとした何者かの「企み」を感じるが、最近ではこの傾向がやや薄らいで来て街だとか川だとか海だとかどうでも良いような、日常の風景をモチーフにした、映画のイントロダクション画像にしているものが多い。勿論、ニュース映画など全くなくなってしまった。多分、テレビのぜんき普及の影響と思える。近頃ではインターネットという、世界を殆んど一瞬でつなぐ便利な通信媒体まで生まれて、世界規模の相互方向の通信が可能になったが、逆に人々の視点や視座は、どちらかというと、低くなっているような気がする。 「世界」というものが、人々の好奇心をそそる未聞の原野ではなく「ただそこにある人間社会」みたいな素朴で身近な存在となり、かえって人々の心の中の世界観が貧弱になっているようにも、思える。 現代の子供達も、車に馴れきった為かこれに似た現象でドライブとか車窓の風景とか自動車そのものに殆んど興味を示さなくなっているが、それと同じように多くの若者や人間達が「世界」というものに興味や好奇心を抱かなくなってしまった感がある。 昭和初期とか、戦後すぐとかの風俗雑誌などを見ていると多く「○○世界」とか「世界の○○」とかの表紙タイトルが多かったが、最近はそのような雑誌はあまり見かけなくなった。 人々はテレビや、インターネットから流れてくる情報が世界の「すべて」と思いちがいをしているのではないだろうか。 「日本人の論点」とかその他色々な新刊書や書籍と本屋で眺めまわした時に最も感ずるのは、若者たちの想像力、創造性の貧困である。人々は、それぞれ独自であると思っている、自分だけの狭い「世界観」にとどまり「自己満足」をしているように思えるのだ。 実際はそうではないであろうと思うのであるけれど、小説からビジネスから映画からして、殆んど面白くないような気がする。恐らく筆者の感性の鈍麻かも知れないけれど。 そういうワケで、やっぱり筆者にとって最も面白い内容の本というと人々のオピニオンとか、私小説的文芸モノよりも、所謂エンサイクロペディアとか、百科事典とか世界地図とか知識のみを扱った書物である。 世界はもっともっと広やかで神秘的で不思議いっぱいで興味津々の世界であるのだ。それこそ人々の「世界観」などより深くワンダフル(不思議いっぱい)である筈なのだ。 今夜は本屋を5軒もハシゴしたのに、バイクで100kmも走って隣町の本屋まで行ったのに・・・本もDVDも何も買わずに帰って来てしまった。 そうして、自分の世界観と格闘しながら、コラムを書いている。これも多分「自己満足」であろうけれど、他人の殆んど興味の湧かない、世界観に付き合うより随分気楽で、想像的に思える。 何故かというに、この短い人生で、他の人の人生を生きることはできないし、それ程ヒマ人でもないので、「自分の世界」を拡げるべく、こうして毎晩、知的生産に精を出している次第である。 本屋の本全部を詠んでしまいたいという欲求もあるけれど、最近は、それに費やす時間の方を惜しんでしまう。 人生の時間が有限であることを知ってしまったからだと思うし、より有効に時間を使って、人生を楽しむには、自分なりの方法を編み出す方が、他の人のそれを参考にすることよりも楽しい作業に思えて来たからであろう。 端的に言うと年を取ったということかも知れない。 世界観が「本当の世界(あの世や異次元)とのつながりを明瞭に見出せた時に「悟り」というものを得たような気がするかもしれない。 その為に来年からは少し動作も思考もゆっくりしたもの、つまりスピードをおとしてみようと思う。その方が人生の時間の味わいを「おいしく」感じらるような気がする。 ありがとうございました。 濱田朋久 |