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■ 晴れた日はオートバイに乗って | 2009.11.16 |
青々と澄み切った秋空をボンヤリと眺めていると、急にオートバイに乗りたくなって、少しホコリの被った古い愛車を、家の軒下から、引き出した。 KawasakiGPZ1100。マウンテン・ブルーの大排気量ながら、やや小ぶりのオートバイに、細身のブルージーンズに濃紺のライダースジャケットを羽織り、黒いマフラーを首に巻いてシートに跨がった。 キーを差し込み、ヘルメットを被り、手袋をはめ、エンジンを始動させたら、愛車も何だか少し、嬉しそうだ。軽くスロットルを開けて吹かしてやると、心地良いサウンドと、リズミカルな振動が股間から全身に染み渡る。 「バイクは生き物だ」と或る映画で言っていた、アラン・ドロンを思い出す。 同じく、バイク好きで有名な、川島隆太という脳研究者によると、脳の活性化にオートバイは良いらしい。そう言えば、仲間のバイク乗りはみんな妙に若々しい。 田舎の晩秋は、黄金色に輝く銀杏の木や冷たい秋風にチラチラと揺れる赤々とした紅葉に縁取られた真っ直ぐな林道を、廃校になった小学校や、木造の駅舎や、消防団の倉庫や小さな畑などを、横目で眺めながら走っていると、暖かい郷愁と同時に言い知れぬモノ悲しさに全身が包まれる。 そんな思いを後方に吹き飛ばしながら、どんどん山の頂上の展望台の公園を目指して、金属とプラスチックで出来た二輪の馬をひたすら駆った。 オートバイは車と違って、音楽も会話もなく、ひたすら風切り音、エンジン音だけだ。 ヘルメットの中の、頭の中で繰り返されるのは、独り言のような自問自答や、意味ないボヤキや不意に湧いてくる回想だ。 時々我に返るのは、正面から走って来る車や、横から動く、人影である。 バイク乗りの頭の中は、危険予知の感覚と、この内語(ひとり言)で結構忙しい。 時折、訪れる静かな安らぎは、息を飲むような美しい景色や、直線道路でスピードを上げる時の加速される素晴らしい一体感だ。スピード狂でなくても自由自在に揺れるジェットコースターのようなもので、大人のおもちゃとしては、クルマより優れていて、個人的には、最高のもののように思える。 もちろん飛行機には及ばないけれど… 船には優っているような気がする。 午後1時に辿り着いた展望所では、中年のカップルと、若いアベックがそれぞれ、景色を眺めたり、弁当を開いたり、タバコを喫ったりして、ひそやかに語り合っている。 風の音と、鳥の声と。 …澄み切った青空の片隅には、飛行機雲が、小さな白線を引いている。 青のグラデーションそのものである美しい山並みに、切り取られたように自衛隊の演習場になっている、広々として黄色味がかった原っぱが、遠慮深そうに張り付いている。 ひとり草原に大の字に寝そべって、青空を眺めていると、突然に涙が大量に湧き出してきて、顔面をびしょびしょに濡らした。 愛した人々の死。 愛してくれた、多くの人々の死。 失った過去、過ぎ去った青春、全身が痺れるように少しだけの甘味のある深い悲しみに、脳の芯から溶けだしそうな感覚に襲われる。 青と緑と、黄色と白と、この地球と宇宙の狭間で生きる人間の営みのなんとはかなく、悲しいことか。 生を思い、死を想い。 思い出に酔い、一瞬の夢のような我が半生の思い出に酔い疲れて、しばらく陶然とした喜びとも悲しみとも、痛みともつかない感情の波に押し流されて、携帯電話の振動で我に返り、現実に引き戻されれまで、涙を流しつづけた。 「元気?」「どう?」 他愛もない日常会話である。 しかし、この会話ですら、或る時必ず心に残る思い出になるのだ。 再び、バイクを始動させ、山を降り、コンビニで缶コーヒーを買い一気に飲み干して、我が家を目指した。 あらためて多くの人の愛の中にいる自分に気づいた。 ヘルメットの中で、また涙が目尻に滲む。 高い天窓から眺めれば、オートバイなど細く小さな曲がりくねった線を行く、小蟻のような存在だ。 けれども、その存在の中の小さな脳の内には、広大普遍な宇宙だって存在できる。 バイクを降りてシャワーを浴び、スーツに着替えて、夕方の会議に向かう時には、殆ど無欠のナマナマしい俗物人間になっていた。 オートバイという乗り物は、青年には友達のシンボルであり、自らの老いへのささやかな、抵抗であり、 老年には、若さであり、 思春期には、幼い自己主張の道具となりうる。 安全と危険。 生と死。 無事と怪我。 その隙間を駆け抜ける、このアドレナリン発生機には今や、若い時よりも強烈に魅せられている。 いつまで乗れるだろう? ・・感謝! |