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■ 再びクスリについて | 2009.11.10 |
クスリは、何かしら、心や身体の健康に有益であるから、そう呼ぶのであって、 もしかしてその物質が有害であるならば、「毒」と呼ばねばなるまい。 ところが味噌も糞も一緒というか、おクスリと、麻薬や覚醒剤などの違法ドラッグも呼ぶし、病院や薬局で出され売られるクスリも同じ呼称であるのには、日本語の表現の多様さや、含みの多さからすると、違和感を覚える。 英語でも、健康上好ましいものはメディスンとかファーマシーとかと呼び、違法なものはドラッグと呼ばれちゃんと区別している。 最近は、医家の方でも溶きおられて、薬を有害視、敵視する向きがあるけれど、そもそも、その抜群の有益性については、あまり語られないような気がする。 先述したこともあるが、末期の睾丸腫瘍で悩や肺や全身に転移のあった、若い自転車競技選手ランス・アームストロング氏の生還も、ほとんど全て、抗がん剤の大量投与を徹底的に巧妙に精緻に行われた結果である。つまり、薬以外では助からないような人々も実は、世界中にゴマンとおられるのである。 最近はあのエイズですら、効果の明らかな薬剤があるらしく、延命もしくは寛解あるいは生還している人々も多いと聞く。 喘息や高血圧、うつ病や精神病など広い分野での薬剤の大活躍にも、少しは目を向けて欲しいものだ。 断っておくが、筆者は決して薬屋さんの廻し者ではないので、 なんら、製薬メーカーやその問屋さんなどにリベートを貰ったり、便宜を図って貰ったりしているワケではない。 身近なものにも、所謂睡眠薬の場合に、眠れずに夜中じゅう悶々と七転八倒しているのが良いか、適量の睡眠薬を服んでスカスカと眠るのがいいか、というのが健康上好ましいが、特に高齢者の例で想像してもらえれば良いだろう。 うつ病の場合もしかり。 モチロン他の治療法も山のようにあるのであろうけれど、こと即効性、安全性、効果性、色々考えてみても、今のところ思いつかない。 末期癌の人の激しい疼痛も、麻薬を中心とした多幸感を伴う、鎮痛剤というものは、患者さんにとって、誠に有り難いものであるのだ。 時々「私は薬は毒であるから絶対服しません。」と威張っておっしゃる方がおられるが、人生における様々の痛みや苦しみ、悩み、不調、不具合に対して、他に効果的にものが無い時には、おクスリという手段を、とりあえずイージーに手に持っておくというのは、悪いアイデアではないと思う。 最終的には、それぞれの考え方、価値観の問題であるけれど、 人生という長いか短いかの旅にクスリなしで苦しく生きるより、クスリを服んで、楽に楽しく生きる方がよいように思える。 麻薬や覚醒剤ですら、その有害性が、有益性則ち、素晴らしい覚醒、爽快感、多幸感、みたいなものが、全く依存性も、副作用もなく、効果しているならば、多くの人生に絶望した人々を一時的に癒してくれる、有り難い物質であると言えるかも知れない。 これからの違法な薬物の有害性をつきつめれば、その依存性と違法であるという点で、ダークサイドビジネス、つまり犯罪性を帯びるということ、明らかに人体に対して、悪性の作用がある為であろうと思える。 そして、もう一点は、人間の社会でなんとなく、そのような人工的快楽について、倫理的に、道徳的に、批判的であるようなムードがあるが、これはその秘密を脳の構造に求めることができる。 もともと、人間の脳には、自然に備わった快楽物質発生装置というかシステムがあって、これらを活性化し、開発していく作業の中に、「人生の喜び」という感覚が隠されているようである。 ザックリとごく大雑把に、 快楽系→ドーパミン 鎮静系→セロトニン等 これらの絶妙なバランスによって生じる、生活上の葛藤や戦いや、安息や、興奮や安らぎなどの全体として見れば、人生の「面白さ」は、薬物に頼らずに、自らの力で勝ち取った方が確かに、社会にとっても個人にとっても好もしいとも思えるが、どうしようもなく、「面白くない」どうしようもなく「苦しい」時には、ひとつの生活改善策、時には生命救済策としての「薬物の服用」という選択肢も、 多少安易であるけれども、結構良いアイデアであると思う。 「自力で」とか「依存しない」とか言うのも、時々は、「疲れる」のであるから、お助けマンとしてのおクスリは、使い方によっては、頼り甲斐のある配偶者か相棒のようなもので、SEXについては、バイアグラなどのED治療剤はその地位を確立して、人間の文化にシッカリと根付いているようだ。 ありがとうございました。 |