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■ みんな復讐が大好き | 2009.10.20 |
復讐をメインテーマにした映画や物語は、昔からとても多い。 有名なところでは、藤田まことの超長寿時代劇ドラマであった、必殺仕置人、必殺仕掛人、必殺仕事人、などのシリーズは、言うなれば、それを職業とする、「復讐請負人」の物語だ。 イスラム教圏国のように、「目には目を、歯には歯を」だとか、詳細は不明であるが、法律的にも、宗教的にも、未だ復讐を容認する社会もあるらしい。 我が日本でも、忠臣蔵というこれまで、超長寿時代実話物語は、相変わらず国民の人気が高く、何度もリメイクされ、その主人公の大石内蔵助は、復讐を、見事に巧妙に、美しく完遂した人物として、多くの日本人の尊敬と崇拝を集めているのだ。 キリスト教では、明確に、「復讐ダーメ」と聖書に謳っているけれどもその割には、他の国と同様に、映画など復讐物語は結構、人気があるようだ。 最近、DVDリリースされた、巨匠クリント・イーストウッドの作品「グラン・トリノ」もその本質は、その主人公の自命を持って達成した、近所の不良グループであり、隣人の女の子をレイプした犯人達の警察による補縛を決定づけるラストの銃撃シーンが、クライマックスになっていて、重苦しいテーマながらも、感動の号泣を誘う、傑作となっている。流石、巨匠と唸らせる、見事な演出と脚本なのである。 現在公開中の、東野圭吾原作の「さまよう刃」も、典型的な「復讐」をテーマにした映画であるが、それに警察官一個人の私情、つまりレイプ殺人被害者の父親の復讐を遂げようとする手助けをしたという主人公、竹野内豊の裁判シーンがラストになっている。 実に重苦しい映画だ。 警察という組織は、「復讐をするのが目的ではありませんヨ」、「法の番人ですヨ」というメッセージが込められた作品で、言い換えるならば、藤田まこと(必殺復讐請負人)は、日本人の心情としては、共感できても、警察の仕事ではありませんよ、というところを明らかにしてくれる。ところが、映画では物語を警察の存在意義と一般社会やマスコミや、映画の視聴者さえも復讐者を美化してしまうようなストーリー仕立てにしてあって、社会の矛盾や不条理を際立たせるように描いてあるのが、どうにも気になってしまう。 そもそも、社会の秩序と人々の心情とは、相克するものなのだ。私情と、法律との間には、大きな隔たり、解離があるのだ。 もっと極言すれば、どうしても公と私とは、相容れない部分がある。 以前にも述べたが、公という言葉は、ム(私という意味)、ハ(無し、という意味)の合字で、「私が無い」、という意味である。従って、国家公務員であり、公僕である、警察官には原則として、「私」があってはならない、という訳だ。 それでも、日本では警察官にはいくらか、裁量権が認めてあって、これは諸外国でも同じかもしれないが、警察官も人間であるし、収賄とかは別にしても、多少の「お目こぼし」とかは許されているようである。たとえば、万引きなどでの説諭だけ、とか交通違反の注意だけ、とかである。つまり、軽微な犯罪ならば、警察官個人の判断で裁量して良いという風に社会も法律も容認している。しかしながら、その寛容さは、明らかに殺人などの重大犯罪を手助けするような行為は、いくらその動機に心情的に共感できたとしても、決して許されないのである。当り前ですね。 それを映画では、いかにも法律に従って淡々と実行する警察官を、伊東四郎が演じていて、ヌケヌケ悠々とした、どちらかというと、世慣れた悪人のように描いてあって、「復讐者」「仕置人」である被害者の父親の復讐を助けようとした温情と、私情たっぷりの優しい「正義漢」を美男子の竹野内豊にカッコヨク演じさせてあって、ある意味ケシカランなあと考えながら観賞していた。 かくいう筆者とて、復讐大好き人間である。しかしながらこれは、明らかに誠に反社会的、エゴイステックな私情である。だから全く私情的心情的には、復讐実行人(娘をレイプ殺人された父親)への復讐完遂を期待しながら、鑑賞いる自分もいることを自覚しつつ、「いや〜それじゃあイカンだろう」というような良識も心のなかにあって、そのよう葛藤もあって、洗練された良識眼を持たずにこのような復讐映画などを見ると、何だか空恐ろしい勘違い をしてしまいそうであるが、この映画の重苦しさの口直しとして、想起したのが、「グラン・トリノ」の主人公、クリント・イーストウッドの解決法で、「自らの命」を犠牲にしてまでも、犯人達を警察に逮捕させようとした主人公の復讐完遂法を観るにつけ、アメリカ人のほうが、日本人よりも、洗練された社会観、倫理観を持っているのではないか、とも考えさせられてしまう。 つまり、法と社会と個人の私情をキチンと分けて整理しているのではないか、と思えるのだ。 ちなみに、このラストシーンにはアメリカ人もびっくりしたらしく、映画評には、そのことを中心的に触れてあった。 第一、復讐というものを宗教的の禁じているアメリカで必殺シリーズのような人気連続ドラマなどあり得ないであろうし、また自殺も許されない社会で実質的に巧妙に自殺した主人公のほうにより高度な判断力を見たし、自己犠牲の美学を観た。 「さまよえる刃」邦画 「グラン・トリノ」洋画 是非見比べられたら面白い。 いずれにしても私達は、復讐劇を好む人々の中で暮らしている。それらの動きを封じ込めるのも警察の大事な仕事であるのだ。死刑は法治国家のものであるが、「私刑」は法治国家の御法度である。もしも「私刑」が許されるなら、レイプ殺人も許されるかも知れない。何故なら、そのレイプそのものにも復讐という意図があるかも知れないからだ。 追記@ 国際法の中にも、この復讐を防止する法律があるのかもしれないが、所謂、国内、国際を問わず、「紛争」とそれに続く「戦争」というものはこの復讐の連鎖のように思えてならない。人類はこの「復讐心」という厄介な感情から逃れられないのであろうから。イルカのように平和に暮らせないのであろうか。 追記A 「さまよえる刃」のアラスジ。 愛する一人娘を邪悪な通り魔的レイプ犯に辱められ殺された父親の激しい復讐心に同情共感した警察官、竹野内豊が微妙に警察の情報を漏らしながら、その復讐を助けていって、結果的にはその復讐しようとする父親は警察の手で撃ち殺され、その竹野内刑事は法の下に裁かれるという物語である。 いずれの作品も、復讐者−悪人達−警察という三者を中心とした構図であるが、一方はアメリカ映画、一方は日本映画であるが、こと「法律」についての感覚感性については、多民族国家である、アメリカ人の方が、優っているように思える。 日本人は、どうも情的には、「甘ちゃん」なのではないかと思える。法というものは、怜悧冷徹なものなのだ。再三お伝えしたいが、個人や集団の復讐心を抑止するもの「法」の大事な役目なのである。これは、アメリカという国家の成り立ちからして、この問題については洗練されていて、日本人はもっと法については幼稚で、極端に言うならば、捕まらなければ、復讐はOKですよヨ、みたいな文化を持っているような気がする。 もともと、武家社会における「仇討ち」は合法だったりした時期もあり、それはある意味で人間の復讐心に対する、社会と文化の誤認識である、と思える。 ありがとうございました。 |