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■ 脱「脱ダム宣言」 | 2009.10. 8 |
いつもながら、我ながら、マスコミ嫌いがますます高じているが、 そもそも、テレビやら新聞やら、雑誌などというものは、事実なぞをエラそうに報道するなんていうものではなくて、 誰かの、広告とか宣伝とかの類のものではないだろうか・・と、最近は考えるようにしている。 筆者の場合、易学というものに少々興味を持って学んでいるので、暦という変化するモノ(易)は読む。←これは少々矛盾した表現ではある。天気予報も見る。これは、ひとえにオートバイに乗らんが為であって、他の目的は今のところ、あまり無い。 政治や経済の報道など、殆ど、官僚さん達の発表したものの受け売りだそうであるが、これらの事実すらも、マスコミの報道であるので、真偽は不明である。とにかく今は、メディアについて言えば、何を信じていいかワカラナイ。 この地域では、「川辺川ダム」問題という、数十年来の政治的事案があって、国と県と市と村と地域住民の間で何度と無く、話し合いがなされたが、これらの内容も、新聞やテレビの報道などを見ると少しも真実が明確には浮かび上がってこない。 今は、環境問題とかいう社会的、世界的なトレンドがあって、ダムなどという自然破壊の権化のような人口の建造物を、五木村という、風趣豊かな山村におったてて、村をダム湖の水面下に没しせしめるというは、言語道断である、 という、一般大衆やマスコミの風潮であったが、これは確かにイメージとしては、ややセンチメンタリズムに傾くキライはあるものの、殆ど人々の脳裏に浮かぶ悲しい郷愁破壊とも言える。 即ち、「ダム反対」という立場であって流域の最近に位置する当市市長の「ダム不要」の一言によって、県も反対し、国も、一地方の県知事や市長が反対の立場」であったなら、と早々に予算を引き上げて、今や、民主党の党首でもあった前原国土交通省大臣も、来臨にの視察と住民との話し合いによって、工事途中のまま、村住民の代替地への移転やダムを想定した、立派な道路はそのままに、 事実上のダム建設中止とあいなった。 この問題は日本中に報道され、マスコミで話題になり、一時期長野の知事であった、元〇〇クリスタル小説の作家、田中康夫ちゃんも、同調し、当時も今も変わらぬ、自然環境保護の名分のもと、地域も全国民もこぞって、実は心情的には、やや、 ダム反対であったけれど・・。 一旦中止になると、一般住民からは、「逃がした魚は大きい」みたいな、地元への工事の経済効果とか、ダムの有益性とかの意見が、町のあちこちで聞かれるようになった。 地域全部合わせても、人口数十万人の町における、数十億とも数百億とも言われる、工事の中断は、 高速道路の整備や、所謂、ハコモノと言われるさまざまの公共工事の喪失は、この不景気な街の活性化にとって、結構な痛手であったとは、誰もが否めない事実となっている。 このような事態に流れを持っていったのは、実は殆ど、マスコミのモノであるように思えるが、実は このダム建設についての裏話が色々とあって、第一に・・ 工事が思うように進まなかった背景には、買収地住民の幾人かが、頑迷に土地の売却に応じなかった為に遅れてしまった工事進捗というものと、 主に、球磨川という清流に生きる鮎釣りとかヤマメなど、ささやかに営まれている漁業とか、それに細く絡む観光業の人々の反対とか、いうものがあったらしいが、 そもそも「鮎」で生計を立てている人というのはほんの数人であるらしく、また鮎釣りを目的に、観光に来るのもほんの一握りの人々であるらしいのだ。 その上、環境破壊と言っても、高速道路建設の時にも、2、3年くらいの短時期に、鮎やヤマメの奇形が生じたりしたらしいけれど、それも今はすっかり正常になり、ダム建設によって生じる、清流の汚濁というものも今の新しいダム技術によって、 かなり抑えられるらしい。 「不都合な真実」というセンセーショナルな映画を撮って、ノーベル賞を貰った米国の元・副大統領、アル・ゴア氏の例もあるように、「地球の温暖化」問題というのもあるらしいが、長い長い、地球史、宇宙史から見れば、人間の活動によって生じたとされる、二酸化炭素の温室ガス効果というものだけが地球温暖化の主因ではなく、 それらは、環境ビジネス、主に原子力発電を推進する一部の人々、例えば原料となるウランの鉱脈の所有と生産とかのビジネスを保有し、利益を得たり、またそれを得ようとしている人々の、 ひとつの捏造的、都合の良い「不都合な真実」というのが、真実であるらしい。 そもそも科学雑誌などを読むと、 温室効果ガスというのは、二酸化炭素だけではなく、地球というものはもともと、周期的に冷えたり温まったりしているような天体であるものらしい。 先述した、ダムの問題でも、 アメリカの砂漠の中の大都市ラスベガスなどは、ロッキー山脈に造った大規模なダムをその水源の殆どにしており、ダムが無ければ1日も生存出来ない、街であるのだ。 北アフリカのナイル川にある、アスワンハイダムなどもそうである。 人間の生活というものは、水無しでは、3日と成り立たないのであるから、我が日本国のように、いくら雨が豊富で緑豊かな山国であっても、殆どが急流である河川しか持たない日本国にとって、かつてはダムというものが、人口の池、湖として、人々の生活用水、農業用水、工業用水、電力用水として、とても貴重なものであり、防災設備としての価値も相当にあったのである。 今は、”ダム建設”などというと、自動反射的に、親の仇のように、敵対視される知識人もおられるが、これはダムの恩も知らず、益も知らず、その環境破壊という側面ばかり見る、偏狭で近視眼的な人々、と見なければならない。これはクスリの有効性、有益性を論じず、副作用ばかりをあげつらう、 一部の報道とよく似ている。 また、ダム建設も、治水ばかりでなく、治山(林)の面も論じるべき問題があって、 自然な状態での、山の保水力というものは、その雑木林が最たるもので、今の日本のように、人工林(植林)によって造られた美しい山には、殆ど保水力がなく、ダムでも造らなければ、地下水にならず、時々は鉄砲水や土砂崩れのように、一気に水が流れ出してしまうので、「人工林にはダムが似合う」ということも言えるらしいのだ。 このような事実や、買収劇や、鮎の問題など、少しも触れないマスコミの罪というものは、一体誰があがなうのであろうか? 知っていることを言わないで、言いたいことを言うと言うのが、マスコミの本質であるならば、街の看板広告や、チラシの宣伝広告と、何ら変わらないのではないかと・・ 筆者は考えている。 いかかであろうか? ありがとうございました。 |