[戻る] |
■ 練習と勉強について | 2009. 9.18 |
筆者はこの言葉を患者さんにも、従業員の人々にも、もちろん家族にも繰り返し使っている。 何事もそれを習熟し成果を得る為には練習が必要であり、その質の量について、その方法の選択と時間の累積については、特に強調している。この問題における時間とは、マルコム・グラッドウェルというアメリカ人がたてた仮説「1万時間の法則」というものだ。 スポーツにしろ、学問にしろ、音楽にしろ、ビジネスにしろ、何かについての熟達には練習というものが必要であるが、それを時間としては、1万時間と断言しているところが興味深い。 確かに、毎日勉強を3時間しても、「それ」を巧みに出来るまでには、かなりの努力、練習が必要である。 スポーツもそうであり、芸術もそうであることは、その教育にかかわる人々においては、薄々気づいていることであるが、どうしても、そのノウハウやスキル、手法といったものに目を向けやすいのは、職業柄、いたしかたないことであろう。 日本の教育については、この時間という視点が、「昔」はあったけれど、「今」は少し少なくなったように思える。 つまり、何時から何時までの勉強時間や今日は何時間勉強した・・・という問題よりもいかに成果や結果を出したかということに焦点を当てすぎているようだ。 かれこれ10数年前に、突然降って湧いたように行われなくなった「ゆとり教育」。 教育の時間の30%削減と週休2日制の導入になり、最もその被害を被ったのは、子供達であり、その後の社会であり、日本の将来である。 この報道がテレビで流されたとき、こんな国家的な大問題をマスコミも世間もいともアッサリと受け入れたことに、驚いた。 公教育への危機感について友人や従業員の人々に強く述べたことを思い出すが、現在、「ゆとり教育実施」の後遺症は、ありありと出現しているようだ。 頻発する不登校、ひきこもり、全般的な学力低下のみならず、学習意欲の障害(学習障害ではない)怠学、怠業などなど、多くの若者達の表情にはありありと怠情への欲求が見られ、努力や忍耐、継続などへの意欲、動機づけにやはり歴然と弱くなっているように見える。 そもそも週休2日も、土日連続して休日ともなると、学習の効果、記憶の保持という観点から非常に不利である。 やはり、脳科学的にも、適切な休養はもちろん必要であるが、長過ぎるのは良くない。勉強というものは、爆発的、瞬間的にまとめていっぺんにするより、毎日毎日コツコツと連続して行うのがはるかに効果的なのだ。 今は、貧困問題もあるが、これはひとえに、教育格差に起因しているようにも見えるし、マルコム・グラッドウェル氏も述べているように、教育の機会への不平等がそもそも、その人の成功、不成功にかかわっているというのだから、コトは極めて重大である。 1万時間というと、1日8時間でも3〜4年、1日3時間だと9年、1日1時間だと、30年あまりかかってしまう。その道で天才的に優れたという秀いでたという人物になろうものなら、正しい勉強、練習、学習を3年計画、10年計画、30年計画という風に、自分の「練習」時間に当てられる1日の時間をはじきだしておいて、更に効果的で正しい方向に導く自己教育に(他社教育・各種セミナー)自ら献じなければならないと思える。 こういう話を職員の人に話すと最初は激しい抵抗にあうが、順々に根気よく強く説明していくと、アタマが柔軟で素直な人は理解し実行してくれる。しかしそうでもない人もいる。このあたりの「心構え」が成功者、不成功者、昇進者、非昇進者に限らず仕事の出来る人、出来ない人の大きな分かれ目のような気がする。 耐ゆまざる練習というものが、必ず結実するとは限らない。 しかし、そのような練習なしに、所謂、成功というものを勝ち取るケースというものは殆んどない。 勉強や学習というものは、そもそも楽しむものである。 「学問」ではなく「楽問」 「勉強」ではなく「好奇心の満是」と「喜び」 である筈である。 人生の実りというものならば、ひとえにその人の学習力、読書力にかかわるものであるのに、そのことに不熟心な人が何と多いことか・・・。いつも驚いてしまう。 皆さん。 1万時間を目指して何とか一緒に勉強していこうではありませんか。 必ず素晴らしい結実を受け取る筈です。 ありがとうございました。 濱田 朋久 |