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■ 愛と結婚について | 2009. 9. 5 |
男女の愛の究極のカタチとして、結婚というものがあった・・・とかつては思っていたけれども、近頃ではそういう風に単純に思えなくなってこれを書いている。 それでも一般の社会では今でも素朴に自然にそのように考えている人々もいっぱいおられて、納得してもらえないということも念頭において敢えて筆を執っている。 筆者の場合も思春期から20才前後、30才前半までは永遠の愛を誓った美しい結婚というものに強く憧れている時期が確かに心に存在したという時期もあったと同時に、その愛は年齢と共に衰えて行き、時にはいくつかの波乱や破たんがあるとしても愛し合った男女が睦み合ってその人生を心から楽しむものだし、その男女の深い絆の証しとして結婚という社会的、法的、倫理的、道徳的縛りというかくびきというものが確固としてあると思っていたのであるが・・・。 仕事や自分の人生の経験を通じて、また色々な書物や映画や雑誌などを通じて学んだことのひとつに、この結婚というものの形式としての強固さと同時にその絆としての何とも言えないはかなさとあやうさというものがある。 結婚式の時のスピーチでは、絶対話材にならない内容というのがこの結婚というものの形式やカタチやキレイゴトではなく、その本質というか実態というものである。 それは、愛の証しとしての結婚、心の絆としての結婚というものがいかにはかないものであるかが解るのであるけれども、その理由のひとつに人間の心、特に男女のソレがとてもうつろいやすいというものがある。 人の心に囲いはできない。 それを鎖でつなぐこともできない。 配偶者の心をつなぎとめるのは自己の魅力だけであるのに、そのことについて全く無頓着な人々も多い。 モチロンありのままの自分を愛してくれる人もいるし、またありのままの相手を愛する人もいるが、人間というものは残念ながらその肉体だけでなく精神も時々刻々、日々年々歳々変化するものであるし、その心たるや一瞬一瞬変化してやまない、誠にとらえどころのない浮ついたものであるというのが大方の人々の実感であろうのに、何と多くの人々が自然な状態であるか、大変な努力か分からないけれどもその結婚生活というものをどうにかこうにか営んでおられるのにホトホト感心するものである。 我ながら夫婦愛というものも少し分かって来て、長年連れ添っていいるワケではないが、実態としてカタチとして結婚というものをしているのであるけれど、その生活の様式についてある一定のカタチを求めるとすれば逆に殆んどの結婚生活というものは破綻してしまうのではないかと思えるのであるが、その理由というのがその愛の証しとして何をお互いに求め合い、価値づけ合っているかについてのズレについていくつかの疑問を持つからである。 社会的な結婚(形式的な結婚) 制度としての結婚(法律的な結婚) 愛の証しとしての結婚(実質的な結婚) このようにザッと3通りに分けてみても、愛と結婚というテーマに絞るとますますその本質から遠ざかっていくような気がする。 法律的にも「結婚というものは男女の性的なつながりである」というひとつの側面もあったりして、長いセックスレスの夫婦、ただ同居人としての結婚生活というものもかなり多く身近に見聞しているし、さらに不倫や不貞というものも色々な人づての話やら雑誌などでの有名人のスキャンダルで話題になっているが、そこにいったい愛は存在するのであろうか・・・とつくづく思えるのである。 中には愛と欲望を混同している男女もあって、SEXとかお金のやり取りを持ってして結婚と呼ぶ人々もいるが、これなどは愛とは無関係とまでいかなくても、少なくとも「愛」というものを中心に据えた様式ではないような気がする。 老いて衰えてSEXも無く、お金もなくなった時にはその男女間にもしかして愛というようなものが存在しなかったならばいったいどんな関係になるのであろう。 貧しい生活を強いられている男女にも、富める男女にもこの問題は存在しているので、愛のある結婚生活を阻害しているものはヒョットしたらお金や性的欲望や支配欲や名誉欲といいうようなものではないだろうか。 それらの愛に似ているが全く異質の欲望の強い人々にとっては、結婚というものが完全に愛の証しではなく、ただの金銭とか社会的地位の共有や授受のみに堕落し、いきなり愛の殆んど無い、全く形骸化したカタチとしての結婚というものに堕ちてしまうのではないかと思える。 そのように考えていくと、愛のある結婚というものの敵は富や権力欲や性的欲望というものではないかと思えるが、このような問題はたとえば社会的地位の高い人々や富める人々というものはよく深考して妥協したり誤魔化したりしながら何とかその形骸とか残骸を集めて持ちこたえているようであるが、富者でもなく、名もなく、地位もない普通の結婚の中心となっている筈であるので、逆に単純な不倫や不貞で簡単に離婚してしまったりするようである。 富者も貧者も、名のある男女もそうでない男女も極言すれば純粋な愛と性と結びつく男女による結婚生活というものが望ましいと思えるが、世の中そのような幸せなカップルというものはいかにも少ないように感じる。 絶対的に相性も良く、愛もあり、経済的にも健康的にも容姿も恵まれている男女であっても、時にはそのどちらかの男女が幼児期のトラウマに基づく心の病や、所謂人生脚本のように、自然にしていて結婚生活を破壊していく男女関係もあったりして極めて悩ましくもあり、痛ましくもあるようだ。 筆者自身のそれもこのような問題をいくつも抱えながらもカタチとしての結婚を維持しているが、この先どうなるか分からない。 どんな男女も大概そんなものではないだろうか。 時々は絵に描いたようなお幸せな結婚生活を造る男女もおられるが、そんなカップルでさえ一瞬でアッという間に、チョットした不定やアヤマチで離婚や破局に至ることもあり、そんなに脆くも崩れる去る愛ならば、そもそも真実の愛などはなくママゴトのような結婚であったかも知れないし、あるいは逆に内実は単なる性欲と金銭欲、支配欲、情や馴れ合いで結婚であったかも知れず、このように考えていくとどんな結婚生活も羨ましかったりするものでなく、本当に幸せな結婚というものは理想論としてはどんな困難や逆境も乗り越える「純粋な愛」という絆で結ばれたものが一番ではないだろうか。 その間には打算も性欲も愛欲も金銭欲も安定欲求もない。 こんな状態をつきつめていくと「心中」する。 つまり一緒に死ねるカップルこそ純粋な愛に基づく結婚をした男女と言えるのではないだろうか・・・。 ありがとうございました 濱田朋久 |