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■ 夏の夕暮れはとても美しい | 2009. 8.23 |
こんな率直で素朴な表現はナカナカないだろうと思い、敢えて掲げてみた。 夕暮れというものは、春夏秋冬四季を通じてそれなりに美しいものであるが、夏のそれはまた格別である。 熟れかかった赤みの強い太陽が青々とした空を、白い雲をピンク色に染めながらおごそかに夏の終わりを告げるように沈んで往くさまは、まさに絶景である。 映画のエンドタイトルのクレジットを流すのにも良いかも知れない。 7月末から8月前半の真夏の頃は、人々のエネルギー、特に若者のそれは急激な高ぶりを露わにしてさまざまにアヤマチやら暴走やらを惹き起こす。 その最高潮の終わりにおとずれるお盆を境に急激に衰えてゆくエネルギーを予想するかのように満々とした夏の日の終わりの落日というものが、何かしら「人生の落日」のようにも感じられて、夏の夕暮れというものをいかにも悲し気に落ちてゆく人々の精神(こころ)のそれと同じ調べを奏でているように思えるのだ。 何でも荘であるが、始め方(朝日)よりも終わりの方(夕日)余韻という意味では重要ではないかと思える。 そもそも朝日はいかにも軽そうで夕日は重そうだ。 当然ですネ。 雲ひとつない澄み切った青空をゆっくりとおおらかに横切って行く黄色い太陽には日本人の情趣からすると多少違和感があるが、それでも灼熱のアフリカ大陸の夕暮れですら日本人のそれと同じようにとても美しいものであった。 確実に仰ぎ見ることの出来る満天の星空を期待できるし、石コロだらけの砂漠や、広々とした草原の地平になめらかに、素早くスッポリと隠れていく光球とそれに同期して深い群青に空気が染められていく雄大な風景の眺めもまたとても美しい。 少年の夏の夕暮れは遊びの中断を意味し、家庭の団欒かもしくは騒乱への恐れと、愛と疲労の味の入り混じったものに違いないし、働く大人達のそれは、恐ろしく汗と疲労の休息や夜遊びの始まりであろうし、青年や壮年の男女達には甘くロマンチックなものかも知れず、狂騒の夜と悶着の始まりかも知れない。 幼い子供を持つ家族にとってのそれは、殆んど全ての人間の幸福というものの原初的なカタチがあり、それは愛の喜びというものの極限的で中心的な形態である男女の愛や親子の愛に集中的に、瞬間的に混在するシアワセの原風景に出会うことができる。 それは、例えば夏の海に出かけた愛し合う夫婦とその藍田にいる可愛い子供達というとてもありきたりなものであるが、これは夏の夕暮れのように終わりであり、始まりである象徴としての愛の継続か終焉かの瀬戸際で立っている一葉の美しい絵ハガキのようなものではないだろうか。 人々は同じことが続いていくものであるという思い込みを持っている。 所謂安定欲求、継続欲求のようなものだが、それは夕暮れと同じように必ず終わるものなのだ。 終わるからまた新鮮でもあり、愛しくもあるのだ。 夏そのものも「夏の思い出」というものも永遠であるが、「夏の出来事」は瞬間的で全く刹那的なものなので、生涯2度と同じようにはおとずれたりはしないのだ。 少年達はそれを求めて30才半ばを過ぎてやっと大人になるまで理解し了解することのはできないが、中年を過ぎ初老になると、それら「夏の事件」というものがとても貴重で有難いものであること、またとても危険なものであったことに後になってやっと気づく。 そういう複雑で彩りの多いさまざまの心象風景の集合され、混合された思いを人々に抱かせながら沈んでゆく夏の太陽はやっぱり愛おしく、甘くせつない夏の思い出の特徴と思える。 焼けつくような熱い空気を突き抜けて走る、とても涼やかで心地の良いクルマの中で見る夏の夕暮れの圧倒的美しさの中でさまざまの痛みと苦さの混じった思い出が胸の内に噴水のように湧き上がり脳髄を痺れさせた。 ありがとうございました 濱田朋久 |