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■ 花火大会 | 2009. 8.23 |
こちらの田舎では、お盆の8月15日には毎年雨でも降らなければ恒例になっている花火大会がある。 街のほぼ中央を東西に流れる川の中央にある中州(地元では中川原と呼ぶ)から打ち上げられる花火を、今年は久々の10年ぶりに一人でしみじみと屋上から眺めた。 7:30分に始まった打ち上げは、まだ薄明の青空にけたたましい爆音と共に美しい色とりどりの火線の花を咲かせてくれた。 丁度、卵子に向かう精子のオタマジャクシのように天空に向かってヒョロヒョロと昇って行く光の小玉が、一瞬消えたかと思う間に頂点の虚空の一点からほぼ正円形に飛び散る美しい光輪の粒子はまさしく「花火」と呼ぶべきものだ。 子供の頃に、打ち上げ場所の傍らでそれを見上げた時には、それは暗黒の天空を満たす豪華絢爛たる光と音の祭典のように思っていたが、久しぶりに見るその花火はうるさいくらい周囲で泣く虫の声や、人々のざわめきや、クルマの走行音や、子供の叫び声の中で間欠的に行われる単なる「火遊び」のようなものに思えたが、永遠の光芒をはるかかなたから照らす、さんざめく星々などにくらべるといかにもはかなく悲しげで虚ろな火花と音の競演であった。 それでもほんの一瞬だけ咲いて散る桜の花のようで、日本人の感性にはいたくピッタリ来るのか、人々は街のあちこちから、時には近隣の村や町からクルマを連ねて毎年そのはかない花火大会を眺めにやってくる。 若者達は半ズボンとTシャツで、若い女の子達はいかにも着なれない安物か高価か不明の浴衣をその未成熟な肉体に巻きつけて、下駄を鳴らして花火をチラチラと眺めながらアイスクリームをなめなめ、連れの男達と目くばせしながらそぞろ歩き、子供達は道路端の暗闇で小さな花火を試したりと、大昔から殆んど変わりのない日本の田舎の町の原風景が確かにそこにあった。 父と母の初盆の時には「精霊流し」をしたが、2回とも花火大会の後のほとんど闇夜であったが、両夜ともに永遠に心に残る思い出深いものであったけれど、その時には全く気にもしていなかったが、その時に最愛の人とその精霊船を送ったという事実である。 父の時には母と一緒に、母の時には妻と共にであった。 そのことに気づいて、この昔ながらの儀式の中にも祖先や神からの人間の愛についてのひとつの啓示が或るように思えてならない。 そういうワケで、花火大会と精霊流しは心の中に常に連想されるので、お盆の夜には底知れぬ淋しさとモノ悲しさを味あわさせる夏の鎮魂のセレモニーに思えるので、毎年毎年、正月と同じくどちらかというと喜びよりも憂いを強く含んだ一日となっている。 打ち上げ花火も終わり、虚無と哀愁と少し甘さの混じった心を胸にお盆の夜の少し涼やかさの増した夜風にあたっていると、自然に目尻に涙が滲んで来る。 幾分の街のざわめきも静まり、虫の声がさらに姦しく夜の闇に広がって行き、明度の強くなった星々と青々とした夏空に秋の気配が静かに染み渡ってゆくように思えた。 滅多にないことであったが、花火の後一人で飲みに出てみた。 夏休み、お盆休みの若者が集団でカラオケを騒々しく歌いまくっている。 時々懐かしい曲も混じるが、知らない歌ばかりだ。 その集団を尻目にカウンターで馴染みの女将さんと少しく話しをしてみたが、少しも心が弾まない。 黙ってウイスキーをチビリチビリと舐めながらタバコを吸っていたら、携帯がポケットで振動し、老眼の為に相手も分からず出てみると病院から急患の呼び出しであった。 88才女性。 「胸の苦しさ」だそうだ。 夜勤の看護師さんとしばらく格闘し、軽快したので様子を見る為に一日入院となった。 ヤレヤレお盆早々(?)仕事だ。 しかしこれで鬱屈した心の内の憂さがいっぺんで消えてしまった。 有難いことである。 患者さんを治し、看護婦さんとカルテをめくりながら付き添いのお嫁さんと話をして色々な治療をアロハシャツのまましていると、何となく気分も落ち着いてきて、いつもの手馴れた医者の顔になっていた。 今年もお盆が花火大会と共に無事に過ぎて行ったようだ。 来週からまた仕事だ。 一年の後半に入る。子供達の夏休みも残り少なくなった。 ノスタルジーもセンチメンタルも一瞬だけ心を通り過ぎる、少しだけ意識的か無意識的かの湿り気を帯びた記憶の再生に過ぎないのだ。 それはまさに打ち上げ花火と同じようなものなのだ。 どんな人の人生も終わる。 どれだけ美しく輝き、世の中を明るく照らしても、それは無情にも消え去ってしまったのだ。 まるでそれがまぼろしであったかのように・・・。 ありがとうございました 濱田朋久 |