コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 信用と信頼2009. 8.15

この2つの言葉はとても似通っているが、つきつめて考えていくと全く異質な意味合いを持つことに気づかされる。
信を用いる
信に頼る
このように単純に分解してみてもその内容には結構差があるように思える。

金融機関というところは「信用」を供与し、お金を貸し出して、回収して金利を利益としているのが一般人の見るビジネスのありようである。
ここでは信を用いるであるから、相手の貸し出し先についての調査をしたり、担保や保証人を取ったりして「信」を積み上げて実際にお金を貸し出す。
つまり、キチンと回収できるか(返してくれるか)を測定するのが大事な仕事のひとつとなっている。
これはあくまで信用であるから、必ずしも相手を信じているワケではない。
信という言葉も分解すると「人の言」ということであるから、そもそも人の言葉ほど当てにならないものは無いので「契約書」みたいなものをお互いにかわして成立させる商売である。

法律的にはその人の言葉よりも「契約書」や「印鑑」の方をはるかに重い価値づけをするので、これは金融機関にとってはとても有難い。
というのは「証文」というものが法的には優先されるのであれば、その「借用証」にはその書いてある内容と同等の価値があるということであるから、法的にある程度守られるという意味でとりあえず安心できるからである。
ところが、一般に家庭や職場での人間関係においては「信用」というようなレベルでは必ずイザコザが起こる。
その関係性や仕事の内容とか質にもよるが、そのひとつの原因がこの「信用」と信頼」を混同して安易に使うからではないかと思える。

信頼関係というものには実は「相手にダマされても良い」という覚悟が含まれていると思われる。
つまり「裏切られた」とか「だまされた」とかいう言葉を簡単に口走る人というのは本当に相手を「信頼」していなかっただけで、それは相手を信用していただけであるというレベルではないかと思える。
信用するというのであれば、そこに契約書とか証人とか何らかの裏づけを証拠として取っておかなければならず、ここに至ってはじめて「法律」とか「裁判」とかの登場となるのであるが、一般の社会においては殆んど「信頼」のレベルであるので、概ねというか殆んど100%相手を信頼しているという日常生活を送っている。

たとえば、家族で一緒に食事をするということは家庭の主婦であるお母さんや奥さんの作った料理を安心して食べるワケであるけれども、何らかの異物や毒物の混入させないという暗黙の了解をしていることになる。
これはレストランでもホテルでも、はたまた病院でも通常普通に行われている関係性で、これは「信頼関係」と呼ぶべきものである。

患者さんは医者の出すクスリや検査や手術などの治療を信頼する。
お客さんは出される食事を信頼する。
国民は国家を信頼する。
市民は警察を信頼する。
人間生活というものはとりあえず信頼のレベルなのである。

「相手を信頼する」ことは「相手にダマされても良い」という覚悟がいると先述したが、信頼してクスリを飲んだり、出された食事を食べたりするという行為の中にもあのひとやこの人が出したものならもう「死んでも良い」というような高いレベルの信頼でなくても、信に頼っているという意味ではある種の強力な依存関係とも言える。

人間の社会における一般の関係性については信頼のレベルであるのに、こと法律とか金融とかビジネスとなるとこれは途端に信のレベルにダウンして「信用」のレベルになるというのが人間社会のひとつの暗部というか正体であるので、ひとたびこのレベル、たとえば訴訟や裁判や警察の沙汰にでもなるとお互いにさまざまな証拠と称する紙キレを示し合って争うワケであるけれども、これは結構見ていて浅ましく、醜く、イヤラシイものであるようだ。

あおういうレベルに陥りやすいのが「お金の取り引き」というビジネスで、何しろ紙キレがお金であるのに、言わば国家の発行する証文であるので、それを扱う金融機関というところはお金を含め信用の為の色々な書類を集めて信用を測定するという作業にかなりの時間と労力を使うワケであるが、一般の人々はそういうレベルではないので「裏切られた」とか「ダマされた」とかという風に述べ立てているけれども、筆者の感覚では「信用取引」を信頼して大損するとうようなもので、クールに眺めると何の異常なことではない。

もともと信頼のレベルと、信用のレベルを分けて考えると「商取引」というものは明らかに「ダマされてはイケナイ」信用のレベルであるのに、そこに信頼を持ち込んでダマされたというワケであるから、ここは一般人としてはひとまずキチンと分けて捉えておいた方が良いと思える。

もっと言い変えるならば、
信用は性悪説
信頼は性善説
と言い変えても良い

もともと日本人は倫理感の結構高い民族だそうなので、この性悪説はなじまないのであるけれど、法治国家というものはその名のとおり「性悪説」にもとづいているので、警察や軍隊や裁判所なるものがあり刑務所もある。

一方、一般庶民の暮らしはというと殆んど性善説にもとづく信頼のレベル関係なので、法律や警察に頼るようなことはない筈である。
つまり、裏切られてもダマされても、時には殺されても相手を信じようという善良な良心にもとづいた関係性が主となっている。
さらに言いつのるならば、信用は「信じられない」という前提があって敢えて信じるに足る証拠を持っていて、相手を信じるという立場であり、信頼は理由はなくても相手を「信じよう」という積極的で善良な立場であると言える。

私たちはそのような社会を生きている。
モチロン、幸福でやすらかな人間関係というのは信頼のレベルであるから、通常は当然書類も法律も印鑑も要らないから誠に気楽である。
「ダマされた」だの「裏切られた」だの「信用できない」だの疑心や猜疑心に満ちた人は逆に信頼を勝ち取ることはできず、モチロン社会的に成功することはあまりない。

西欧社会でも、人々の信頼を勝ち取って社会的に成功した人々というのはプロテスタントの人々が多いらしいが、彼らのモットーは「誠実」なのである。
誠実な人間は社会からも国家からも信頼され、信用され、自らの身分を自然に高めていくことができる。

この一見複雑に見える人間社会も、
信用と信頼
性悪説と性善説
疑念か信念か
この両面をあわせ持っていることを自覚し、上手に使い分けていくことが大切とも思える。
通常は良好な家庭や職場での人間関係といものは「信頼関係」であるので、そこには疑いとか信用調査とか「ダマされた」とか「裏切られた」という言葉はなく「信じよう」という善良な意志が強固に存していて、たとえば探偵を雇ったり、調査会社を入れたり、法律が入ったりしたならば、もう既に信頼関係を破綻しているのである。

このように考えると賢明な人間というものは、この大切な信頼関係を崩さない為に「誠実」であることと同時に、まず相手を真に「信頼」することが大切で、さらにすすんで「裏切られたりダマされても良い」という態度と覚悟を堅持しなければならないのではないかと思える。

先述したコラムの表題を借りて言えば、医者は敢えてダマされて良いのである。
それは言うならば医者の良心や善良さの証しであると思える。
さらに患者さんや社会の発展に寄与し、世界の平和をつくり出すものであれば尚更良いと思える。

ありがとうございました
濱田朋久


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