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■ 愛に生きる | 2009. 8. 3 |
多少自慢話のように読まれるかも知れないけれども、少し我慢して読んでいただければ幸いである。 筆者の母方の親戚には、少なくとも4人は正真正銘の億万長者がいて、それぞれ個人事業主ではなく純粋な同族個人企業の役員に列される人々である。 西暦1900年に創業した米焼酎の造り酒屋で、初期の頃は細々と半農で経営をしていた筈であるが、それでも100年後に見事に事業に花を咲かせたのであるから大したものである。 以前、日経新聞の出した書物によれば、企業の寿命はだいたい33年であるそうなので永続企業という意味でも誠に慶賀すべき成果であり、実りであると思える。 メデタシメデタシ。 個人資産だけでも数十億の人々と、借金漬けの町医者では比較にならないほど人生の幸福の内容量と質と思われるかも知れないが、法事やら祝い事やらの親戚の宴席の集まりでは、皆さん筆者のことを指してしあわせそうとか羨ましいとおっしゃる。 見回してみると皆さん結構お金持ちであるのに、誠に地味ないでたちであり、どちらかというとかなりつつましやかな食事であり、クルマと言えばそろいもそろって地味な国産車に乗っておられる。 最高級車でもなく、モチロン外車でもなく、豪邸に住まわれているワケでもない。 どちらが借金王で、どちらが資産家王か見分けは絶対につかないであろう。 遠目に見ると皆さんただの田舎のオッサン、オバサン達である。 ところで、この親戚の創業者ではないが、会長(筆者の叔父)にあたる人が地元のまあまあの篤志家でもあり、情愛の細やかな立派な尊敬できる人物なのであるが、毎日どこにも殆んど出かけず「死んだ方がマシだ」とかブツブツ呟きながら、焼酎を入れたグラスを片手に筆者に口説口説しくのたまうのであるが、これが不思議でならない。 一生懸命働いて、社会的にも経済的にも家庭的にも傍から見るとほぼ完璧な幸福人である筈なのに、一体どういうことなのであろうとしみじみと考えたことをここに書いてみたい。 母方の祖父という人は、これまた筆者の人生の恩人であり、さまざまな人生の局面で救ってくれた人なのであるが、大変に嫉妬深い妻と日々戦いながらも8人の子供をもうけ、その長女(筆者の母)を医者に嫁がせ、息子達を後継ぎにし、40代で早々と会長に引退して実質上の隠居生活をはじめたワケであるけれども、これが奏功したのか家業は繁栄し、悠々自適の老後を数十年間生きて、90才の長寿を全うして脳梗塞で数日間の意識障害の後に病院で息を引き取った。 この祖父というのが、いつも難しい中国の漢文みたいなものを読み、悪妻の元から逃げて来て、筆者の医院の病室に「入院」したり、週刊誌のヘアヌードを楽しみに駅の売店に「散歩」に出かけたりして余生を過ごしていたのであるが、これまた親戚の結婚式に出席した時に聞かされた逸話というのがあって、昔まだ社会が貧しい生活にあえいでいたところ、祭りのたびに集まってきた人々にお金を配っていたそうである。 また、幾人かの職人さんたちや丁稚の人々の無縁仏を供養したりと、ナカナカの功徳(クドク)を積んでおったらしいので、これが子孫の「先祖の余慶」として家業の繁盛繁栄につながったのではないだろうかと思える。 親戚一同は皆集まり、概して仲も良く、質素な暮らしを心がけ、書物を読み、誠実にまじめに生きる人々であるけれども、それで「死んだ方がマシ」というようなバチ当たりな言葉が思わずその口端から噴出しているのはいったいどういうことなのであろうか。 実り多き人生の果実を最も自由に悠々と受けるべき身分であるのに・・・。 少なくとも富というものは、人生の幸福感とは直接的に結びつかないもののようであるようだ。 お金持ちでない人にとっては何だかホッとする話です。 お金はとても便利なものである。 しかし、お金で得られる喜びというものは、実はとてもはかないものなのかも知れない。 これは、朝起きて鳥の声を聞くとか、しみじみ田舎の山々を眺めるとか、都会の雑踏の美しい青々とした夕暮れの空気を味わうとか、駅のホームに立つ女性のスカートのはためきに心弾ませるとか、日常のささやかだけれども、実は深いヨロコビというものには殆んどお金というものはかからないのだ。 お金で得られるヨロコビというものは、人生ではあまり大したものではないとモノの本に書いてあったので、そのような視点で人々の心や生活を観察してみると確かにそんな風に感じとられる。 人々の田舎での楽しみ、娯楽というとパチンコとかスロットとかのギャンブルであったり、飲み屋さんで酒を飲んだり、玄人素人問わず女性と遊んだり、今は不倫やら自由恋愛やらさまざまな男女の交遊を通して、何がしかの人生の快楽を勝ち得るけれども、これらの遊びの快楽に「お金」はとても重要で便利な代物ではある。 これらのお金で得られる快楽と、全くお金のいらない快楽(ヨロコビ)とを分けるものは何かと言えば、それはやはり「心」であるのだ。 「心」というか感性とか理性とかを含め、人生や自然や人間からヨロコビを勝ち得る為の「心」が健康で生き生きとしていれば、そのようなお金のかかる遊び事やさまざまの快楽の誘惑にも惑わされず、悠々と楽しく生きていけるのではないだろうか。 人生の喜びは「愛する」ことであるそうな。 何を愛するかはそれぞれあるけれども、「愛される」ことも時には必要かも知れない。 「愛に生きる」とは「仕事に生きる」と言っても良い。 「恋に生きる」でも「子育てに生きる」「人類愛に生きる」でも良い。 その中でも仕事とは、社会と個人の愛の交歓である・・・と考えている。 個人が社会に「愛」を与える。 社会から「愛」の物質化した「お金」と社会の賞賛と感謝と愛をうけとる。 これを交互につづけていくのが仕事であると思える。 筆者の叔父の「死にたい病」の会長は、仕事から完全に手を引いた途端、妻とのそれ以外との愛の交歓の場を失ってしまったのだ。 真面目すぎて愛妾も恋人も、行きつけの飲み屋も社交もなくひきこもってしまい、そのような妻と二人きりのちぢこまった愛に生きているからなのだ。 潔く隠居した祖父とは、覚悟も心意気もちがったのだ。 その上、筆者の分析ではこの尊敬すべき、また同情すべきとも言える叔父は、そもそも隠居生活は似合わない星なのかも知れない。 奇しくも世界一、二のお金持ちで、現役の投資家のウォーレン・バフェット氏と同い年でもあるのだ。 「生涯現役」が望ましい人物なのかも知れない。 ありがとうございました 濱田朋久 |