コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 愛と死2009. 7.11

こんなに重くて深いテーマを浅学にして未熟愚者の筆者が書き出そうとは・・・。
ヤレヤレ、春の陽気にアテられたのかも知れない

まがりなりにも医学を修め、医療というものに携わっていると純粋に医者として見れば、生と死の境界は結構クッキリしているように思えるが、果たしてそのようにスッキリと割り切って良いものだろうか・・・と最近思うのである。

現世では死者というものは決してある世から引き返しては来れないことは百も承知としても、太古の昔から幽霊話は数限りなく存在しており、近々の映画や小説などでも死者がよみがえって現世で暴れまくるというような物語は枚挙にいとまがない。

直木賞作家で今や売れっ子の浅田次郎氏の「ぽっぽ屋」という短編小説集もその何篇かは幽霊話であって、それらはまた読者をしていたく感動させ、映画化もテレビドラマ化もされて大いに人々を癒やしているようだ。
物語では幽霊の存在も全く無理がなく、自然にストーリーに溶け込んでいて、とても不思議である。
いかにもありそうというものである。
愛を試す時に死があるようにも思えるが、実際の人生のでの死は映画や小説のように何回も死ぬワケにもいかず、一度の人生で死は一度きりであるけれども、愛というものを語る時に「死」というものを取り上げないと少しも感動的にならないようである。
それこそ「命がけの恋」「愛する者の為に死ぬ」というのは武士道の根本であり、それが日本人の美学として「大義の為の死」「忠義を証する為の死」みたいなものがあるようである。

忠臣蔵、即ち忠臣大石内蔵助も歴史的にも庶民から見てもとても李立派な人であると考えられているが、言うならば殿様の不祥事で生じたアヤマチを逆恨みして吉良氏を討ったとも言えなくもない。
明治天皇の崩御の時に殉死した乃木希典大将や、その夫人など今でも乃木坂の片隅のあって軍神と崇められているようであるので、日本人の美意識の中に「自死」はその理由に心情的な正当性があればほとんど名誉を与えられてこそすれ、非難の対象となることはないようだ。

一方、キリスト教やユダヤ教の文化では、自殺や自死は近頃まで犯罪であると見なされていて、キチンと葬儀も出されなかったり秘密にされたりして、あまり美しいものとはされないようである。

そういう文化的宗教的背景があるものの、アメリカやヨーロッパでも日本のように自殺による死亡は交通事故を大きく上まわり、若者特に25才以下の死因では癌死・事故死や他殺死などの合計よりも多いそうだ。
アメリカでは銃器の購入が割に簡単であるそうだが、その主たる使用目的は何と「自殺」であるそうであるから驚きである。

ここ50年間では子供の自殺や若者の自殺についてはほぼ倍増しており、公衆衛生的には自殺の問題は捨てておけない大問題であるけれど、社会の反応は意外に鈍い。
自殺という病気はインフルエンザなどよりもはるかに猛威をふるっているのだ。
自殺の背景にはこれまた意外なことにほぼ100%「心の病」が確実に存在し、予防とか治療とかで減少をはかれると考えられているが、一般の見方や政府の対応は繰り返すがはなはだオソマツである。

話はそれてしまったが「生と死の間」を究したもので、臨死体験を集めた世界的研究家で、エリザベス・キューブラー・ロスという女性や、日本の作家立花隆のそれやその他多くのこの分野の研究家によればほとんど同じような体験が繰り返し述べられていて、その真実味に対しては強固に反論するのをためらわせるものがある。
霊的に見ても、浮遊霊とか成仏するとかしないとかがあって、死者も人によっては生者の周辺を好きなように漂うっていてまだ生きている愛するひとを守っていたりするという物語があったりして何となくロマンチックではある。

かなり以前のアメリカの映画で「ゴースト」というのがあったが、パトリック・スウェイジ扮する恋人を悪人の手で殺されてしまった主人公のデミ・ムーアが、ウーピー・ゴールドバーグ扮する霊媒師の力を借りて悪人退治するという結構ヒットした作品があるが、愛し合った人同士、例えば親子とか恋人同士とか夫婦とかは強力な霊的な守り神・守護霊となってその人物の人生成功を助けるという説もあり、全く見当違いな嘘はないように最近は特に思える。

死者は生者と共に現世を「生きている」のかも知れない。
死者と生者という存在のあり方のカタチが異なるだけではないだろうか?

そして、死者と生者は交互に、また相互に、また互換的に相補的に、そして各個人の間で割合自由に往来するものではないだろうか。
何だかやたらに荒唐無稽に感じられるのかも知れないが、近頃そのように考えた方が腑に落ちるような気がするし、アタマもスッキリするのでこの仮説の証拠固めをひそやかに静かに実行しているところである。

愛というような人間の理性も感情も欲望も超越したような概念というかチカラも本当のところその対象についてのこだわりを捨てて、無限界の対象物、つまりこの世のすべて、イヤこの大宇宙の自分を含めたありとあらゆるものすべてに対して向けられ、すべてと一体化した時にはその愛のチカラたるや無限界に近く、時空を超えてこの世界すべてに行き渡り、その目的(たとえば魂の成長というような抽象的な概念)の達成を果たさせる絶大なエネルギーを持つものではないだろうか。

美しい愛の物語に死は付きものである。
生者は、その死者の魂を癒やす為に自らの愛のチカラを存分に使って愛の完成に向けて実践していくべきものなのかも知れない・・・と今は考えている。

ありがとうございました
濱田朋久


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