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■ 医学と哲学 | 2009. 7. 7 |
何と深遠で崇高な表題であろうか? こんなタイトルを図々しく掲げられるのも、多少好き勝手に書かせていただくことができるのもこのコラムの役得であると思える。 ご容赦ください。 昔、開業当初の若造の頃、仕事をしていると看護婦さんやら事務の人の動きがどうも気に入らない。 夕方にはそのストレスでアタマがブチ壊れそうであったが、ある自己啓発セミナーに参加してから勇気を出して朝礼というものを始めてからそういうことは全然なくなってしまった。 謂うならば朝礼のスピーチが「先生のガス抜き」になったというワケである。 そういう意味で考えたこと、思ったことや反論、反発心のようなものをコラムに吐き出すことによって自分の頭の整理をすると共に、先述したストレスやうっぷんの「ガス抜き」の効果もあるようで、筆者の心理的安定はお陰様でスコブル良く保たれているようだ。 現代の医学とか医療とか言うものを観察するに、患者さんの側から見た場合にその入口、つまり医者的に表現するとプライマリーケア(初期医療)とその出口ターミナルケア(終末期医療)にのみ医療が哲学的、全人的かつ総合的ではなく中身はどうも今の官僚制度よりも程度の低い純粋な「縦割り」になっているように思えるのでここに少し書いてみた。 ○○科という考え方も、だいたい内科系・外科系というのがあって、内科系はメスは使わず、外科系はメスを使うという程度の分かれ方ではなく臓器別の科、たとえば心臓科・循環器科・胃腸科とか肛門科・神経科・精神科・産科・婦人科・耳鼻科・眼科などなどとおびただしく多岐にわたる標榜科というものがある。 最近では肝臓科とか頭痛外来とかとか思春期科・不妊外来とかドンドン専門分野が分かれる一方である。 このあたりの進化(?)の仕方もよく官僚制度に似ている。 その上、専門医制度とか資格制度とかを今後は取り入れるような動きもあって、このトレンドはますます進んでいきそうな気配である。 昔、流行していたパーキンソンという社会学者の提唱したように、組織化されたものは放っておくとどんどん細分化され、専門化され、複雑化し資格化され分別分離されていくもののようである。 近頃の都会の方でのゴミの分別化の細密化みたいなものでどうにも際限がない。 このような方向性は一時期全人的医療というもので一旦はとめられたようにも思えるが、最近は多少油断があるのかこの細分化も表面でも水面下でも勝手に進行していくようである。 或る一人の人間(患者さん)の立場に立つと、実はこの方向性などどうでも良いのである。 自分の肉体と精神が健やかに円滑に活動できれば良いのであるから、実のところ昔のギリシャ時代の大哲学者で医聖と称された「ヒポクラテスの誓い」を拾い読みすると・・・ @病を治すものは自然であって医師は自然の下僕である A生涯を人類の為に捧げ、生命を至上のものとする H生涯を通じて医学の知識と技術をみがき、医業の品位を尊び伝統を守り、さらに進歩発展に努力する その他、守秘義務とか人道主義とか謙虚、誠実、信頼、愛情など人間性を高めることに精進することを謳ってある。 現代の医療界にあっても全く何の矛盾も誤謬(ごびゅう)もないパーフェクトな「誓い」の内容となっている。 この内容に照らしてみてさらに歴代の日本の首相の御意見番で終戦の詔勅(しょうちょく)の原文を書いたと言われている碩学安岡正篤氏の思考の三原則「多長根」、即ち物事を考える時には、その事柄について多面的、長期的、根本的な立場にいなければならない・・・ということも加味してみると、近頃のやや怪し気な理屈というものというものに疑問を感じて少し筆をすべらせている。 一番はやはり科を分けすぎというものがある。 確かに自然科学であるから進化発展すべきと思えるが、決して分化発展ではないと思える。 EUではないけれど、統合するという方向もあっていいのではないかと思える。 要は分化と統合のバランスである。 これはいかにも抽象的表現で恐縮であるが、現時点でこの言葉以外には思いつかない。 「医学の発展の分化と統合のバランスの追求」 これがひとつの筆者の主張している論旨(ろんし)である。 この立場は民間医療も含め、ひとつの立場に固執ものがもてはやされる気風があるが、これも或る程度のブレーキをかける必要があると思える。 たとえば漢方医は漢方に固執し、民間医療者のいくつかは「全人的医療」と称して何がしかの変わった治療を極端なカタチで推し進め、患者さんや多くの人を結果的に不幸な結末に至らしめていることもあるようである。 食事の問題、栄養学の問題についてもしかりで、或る特別な考え方にもとづいて何がしかの理論を組み上げて、それを他者に押し付けようとするいうものであるが、それに固執して他者を排斥するのは立派な大人の態度ではない・・・と思える。 或る高熱の続く患者さんを、某大学の肝臓病の権威である教授に診せたところ完治せず剖検したところ単なる肺炎だったというような笑えない笑い話もあったと聞いている。 嘘か誠か不明であるが何だかありそうで怖い話である。 先述したように専門医の問題とか各科の縦割りの問題とかの弊害が結構あるようで、筆者も医者のハシクレであるので少し忸怩(じくじ)たる思いがある。 「うつ病」という病名をつけてしまいがちであるというものがあるが、経験的に見ると誤診は少ない気がするが、内科一般や各科の知識も汎く持っておかないと心療内科でもこの傾向があると思えるので、いつも自分自身に注意を喚起している。 いずれにしてもどんなカタチであれ医療というものに携わる以上、何らかの哲学を持っておかなければならないが、まず最低でも「ヒポクラテスの誓い」の再読・速読・唱和みたいなものとか具体的には医者であれば西洋・東洋医学、アーユルベーダーとかのインド医学でも何でも良いから全体的というか統合人間学とかの知識とか素養を持ち、決して排他的にならないことが肝要と思える。 件の医聖の「誓い」の中にもこれに似たようなニュアンスが含まれているので深読してみられたらと考えている。 率直に言って極めて生意気な発言であるが、筆者の年令であれば大学病院であれば「教授」のそれであるので、毎日々々日常診療を若い時からこなして来て、自ら勝ち取ってきた治療理論みたいなものも明瞭明確に保持しており、実効も感じているので一筆したためてみた。 感謝 まとめ(key word) ・分化と統合のバランス ・東西医学の統合 ・全科的な学習と素養 ・ヒポクラテスの誓い 追記 以上のような理屈は東洋思想の中の中国古典「易経」とかの易学的な文献にはいたるところに散見されるが、それは陰(統合)と陽(分化)のバランスの重要性として明記してあるようだ。 ありがとうございました 濱田朋久 |