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■ 家族というもの | 2009. 7. 5 |
これは、以前コラムに似たような内容として、述べているので少し重複するが、毎日毎日心の医者の仕事をしながら、ウンザリとする程、話している内容があるので、敢えて、書き記しておこうという衝動に駆られて筆を手にしている。 普通は一組の男女が結び合って、夫婦となりそこに子供が生まれて家族となるワケであるが、幸か不幸か、子供なし夫婦というカップルだけの場合「家族」という呼称にはやや違和感がある。家族というのは、やはり、親子であり兄弟ではないかと思う。 「血のつながり」を持っている集団を家族というのではないだろうか。モチロン養子縁組やヤクザや組織やマフィアのような集団も○○一家とかファミリーという位で、また違うカタチの「家族」であろう。これもやはり、先述したように、親分・子分・兄弟分を指し、男女は指さないようである。 このことが、今回の筆者の述べたいことのひとつの重要なポイントである。 つまり @男と女の関係と A家族の関係は 似ているようで、全く違う異質のものであり、このことを、理解しておくことが「家族」における、人間関係、社会における「家族」というものの本質を知る上で、極めて重要な問題を包含していると思える。 男女はできるだけ、遠い血、つまり血縁が薄いほど相性が良いそうである。 これは血族結婚というものが、何かしら悪性の遺伝子要因をしめるという意味もあるが。遠い血縁ほど、つまり遺伝子的に異質度が高い程、「好もしい匂い」と感じるようであり、男女組み合わせの相性の良さとは異なり、性的な「引力」というものの強さを推し測るのにその「血の遠さ」と「匂いの好もしさ」が正の相関を持つということが計測機能として興味深い。 つまり「性的引力」とは、その「違い」の強烈さにあり、家族というものは、その同質性によって、対極にあるので性的引力は逆に極めて低いということになるが、時々、近親相姦などというものがあり、事態の理解を少しヤヤコシクしているようである。 ところが、この問題も、人種や部族となると、少し色合いが異なっており、やはり白人ならば、白人同士、黒人なら黒人同士のように、同じ人種や同じ部署を睦み合う傾向がるが、これはどうしても、「子育て」の段階で女児は父親を最初の異性として親しみを感じ、男児はそれを母親に思い出すという傾きがあるので、好みの異性というものは、果てしなく両父母に容姿は似ていて「匂い」というような原始的本格的なものは、遺伝的に遠い存在を求めるように思える。 いずれにしても、家族の内部では、この性的なものを含め、情学については、非常に濃密で深いものがあるものの、逆に反発もするエネルギーも相当なものであるようだ。 これは、幼い子供を持つ両父母には少し理解しづらいが、子供が成長し思春期を過ぎる頃から、最も近しい、異性の親の反発や嫌悪とかが、生じて来て、自己学と他者学の葛藤と憎しみと愛情の混じりあった複雑な感情と感覚を胸に抱き始め、家族内の大きな混争と騒乱を招来するようだ。 結論として述べるならば、親子の間で、背格好が似てきたならば、親子というものは出来るだけ、離れて暮らした方が良く、昔の大家族主義的集団、3世代、4世代の混在と、親しい他人の存在などの原始社会や、類人猿の集団についても、一見は異なるようでも、当てはまるように思える。もっと過激表現をするならば、親子は油断すると、自然にいがみ合い時々は殺しあうほどまでに、危険をうむムズカシイ人間関係であるということを、お伝えしたいし、また、逆に他人の場合、チョットした工夫さえすれば、それが男女で同姓の友人関係であれば、極めて良好な人間関係を保ち続けられる可能性が高いようである。 このような前提があってはじめて、親への恩愛や先祖への思いというものが、どちらかというと、意識的に生じてくるものであって、そういう人間関係の中に、美しいもの、敬うべきものが結構高いレベルで現象化されるものと考えている。 親子は反発しあい・・・ 兄弟は競い合い・・・ 男女や他人は睦みあう・・・ もしかして、敵同士はもっと仲良くなる要素をもっているようだ。 そういう意味では、自己愛、郷土愛、その延長にある団家への愛というものは、自己愛の延長にも見えて、また、実質なものへの排他的行動、攻撃を生み出す危険なものにも思える。そしてまた、隣人愛というものの延長線上にある他人や隣因への愛、人類愛という方向に行くようであるから。 家族愛の光には争いがあり、隣人愛の先には平和がある。 という極めて単純な理屈を結論として多少強引に導きだしている。 ありがとうございました 濱田 朋久 |