コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 六月の思い出2009. 7. 4

昔、NHKの番組で「満点パパ」というのがあって、三波伸介の司会で最初に子供が出て来て、色々父親について質問され、似顔絵まで描いて、その当時の知名人や有名人が登場し、最後は「お父さんへ」という子供からの手紙の朗読で終わるというチョットした感動ものの番組であるが、当時とっても結構な人気番組で、たしか司会の三波氏の急死までつづいていたようである。

この番組に先だって「てんぷく笑劇場」というドタバタの演劇もあって、盛り上がったお笑いの刺激と、親子の情愛を上手に、見事に盛り上げてくれる当時のマイホームパパか、ビジネスパパか分からないけれども「父親」という存在の重みを感じさせてもらったものだ。

筆者の父親を表現する時には「酒乱」であるとか「家庭内暴力家」とか「かくれ愛妻家」とか「子煩悩」とか、まじめで優しいお医者さんとか色々な表現ができるけれども、当時も今も変わらずに断言できることは社会的・家庭的に不完全な人格ながら「満点パパ」であった。
6月も中旬を過ぎてから梅雨入りした当地、九州南部でも紫陽花が雨に濡れて少し嬉しそうである。
農業にたずさわる人々にとっても恵みの雨である筈である。

この6月の思い出に、不思議なことに何度も思い出す、いかにも心地良い父親の思い出があるのであるが、それは中学生になってはじめて往診というものに連れて行ってもらって、父親が運転手兼事務の人にクルマで田舎の家々を10軒ぐらい訪問するのであるが、往診の後に出されのは大概生の焼酎であり、それをグビッとあおり、いくらかの会話を家族として、また次の患家でも同じようなことをして、少年だった自分はただ黙って患家の縁側に座って、田舎の田畑や野山を所在なく眺めて過ごすのであるが、この何の変哲もない、たった一回の往診の思い出の甘い陶酔感をともなう快感というものへの不思議な感覚の理由が分からないことがもどかしい。
一体どんな感興が湧き起こったのであろう。
自分が医者になるかも知れないという予感と、私立の中学への入学を果たしたという安堵と、6月のあの特有の思春期そのものの青々とした緑の風との混じり合った、そして心から愛し尊敬する父親との、滅多にない静かな無言のやりとりなどが、田舎の夕暮れの風景と共に心の中に鮮やかによみがえって今でも心から筆者の心を真から癒してくれる。
父は、当時はまだ40才の若い医者であったから、結構未熟なところもあったかも知れない。
元気があり余って身内にエネルギーが充満しているようでもあったが、いかにも陽気で優しく、親しげに屈託なく患者さんやその家族に親しまれている姿を見るにつけ、そしてまた自分の仕事への誇りと自信を見せられるにつけ、ついつい仕事上のトラブルや苦しみや疲労でくじけそうになる心を「あるべき心地良さ」「懐かしさ」に導いてくれて本当に有難いし、患者さんに相対している時には調子の良い時には殆んど必ず思い出す6月の光景であるけれども、その回数と言ったら意外にも年に2〜3回である。

そして6月はまた筆者にとって特別な月でもある。
この生涯の中で明確に最愛の人と言い切ることのできる我が父親の命日が6月30日であるからである。

“東京の大学”(本当は神奈川)から帰って来た父親の死の床の枕元に座り、畳の上にポタポタと一晩中涙を流しつづけた通夜晩は朝までドシャ降りの雨であった。
天も筆者とともに涙を流してくれていたようであった。

享年50才、筆者は25歳の大学生であった。
最初に経験する、最初の深い悲しみの体験であったが、この時から大人として生まれ変わったような気がする。
未亡人となった母と手を握り合って何とか「生きて行こうぜ」と暗黙の会話をしたように思える。

昭和53年の6月であった。
お父さん、本当にありがとう。
貴方のお陰で私は生きています。
貴方の愛で何とか生きる喜びと力を得ています。
貴方の存在は永遠に胸の中に厳然とあります。
そのことにも御礼を言いたい。

こころから、ありがとうございました・・・と。

ありがとうございました
濱田朋久


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