コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 多忙について2009. 6.14

「忙しいが多い」という意味であろうか?
殆んどの人は多忙を嫌がるようだ。
時には自らの多忙さを自慢気に語る人もいる。
大人とか賢人とか言われる人は、たとえ多忙であっても決して忙しそうに振舞わないそうである。まさに「忙中閑あり」である。
一般的に多くの医者という職業は普通多忙である。
モチロン、逆になかにはオソロシク暇な医者もいる。セレブのように優雅な医者もいる。

筆者の場合、大学の研修医時代に朝起きてから夜寝るまで病院で仕事をして年中無休という状態がしばらくあったけれども、その真最中には特に苦痛であるとか逃げ出したいとか思わず、薄給も多忙も休日なしも修行と割り切って意外に平気であった。多分若かったということもあると思うが、学生時代の試験や勉強への圧力より仕事の方が、はるかにマシであったからではないかと想像している。

先輩の大学の助手のドクターとか講師とか教授、助教授の人々もみなとても忙しそうで朝から晩までよく働いていて、また勉強もしていて日常的に英語かなんかの本を読み、文献をあさり、論文を書き、患者を診て、研究をし、何となくそれが当たり前のようであったし、またそれをスマートにカッコヨク、手際よくこなすドクターが最高の「憧れ」であったので、研修医のペエペエの新米の医者であった筆者から見るとそれらの人々はまるでスーパーマンのように素敵でカッコヨク、今でもやや郷愁を帯びた永遠の目標である。

そういうワケで、最近少し事情があって仕事が増えて周囲から心配してもらえるが、研修医時代と、開業当初しばらくしてからの超多忙というものを経験しているので、近頃に「先生はお忙しいですネェ」と人から言われても「大したことは無いです」と正直に答えている。
モチロン若い頃と比べてであるけれども・・・。

今回は「多忙」というものを苦痛に感じるのにはいくつかの要件があると思えて、それを少し述べてみたい。

第1は嫌々仕事をしているという心の状態であるけれども、自分のしている仕事が嫌で嫌で仕方がないというケースである。
これは苦痛そのものであろうと思えるが、この苦痛をよく調べてみると、特に若い人の場合、他にしたいことがあってそれができないというような苦痛。
仏教的に表現するなら「求不得苦」。つまり求めているものが得られないという苦痛に近いのではないかと思える。

若者はそのエネルギー過剰によって生じたでろう欲望、たとえば激しい性欲や物欲や怠惰欲や遊興欲があって、これらで苦しめられることが多いようだ。
中年期以降もこれはつづくが、それらの激しい欲望もやや落ち着いてきて仕事一筋みたいな状態になることもあるが、モチロンこれは個人差があってマチマチである。

経験的には若者であっても多忙すぎる場合には、エネルギーが消耗してしまって、若者らしい激しい欲望ですら枯渇してしまって、何かしら修行僧のような「枯れ」た感じ、つまり一種も悟りを開いた禅僧のように淡々と多忙を苦にせず働ける状態になることもあるようだ。

毎日多忙な日々を送っていると、肉体的には確かに苦痛であるけれども一種の「あきらめ」「諦観」を持ってしまうと全く苦痛が苦痛でなくなるような気がする時がある。丁度マラソン選手のランナーズハイみたいな感覚ではないかと思える。

多くのビジネスマンとか芸能人とかスポーツマンに人々の中には、激しい困苦と痛苦の中に自らの意思で飛び込み、面倒臭さと多忙多用さを時間的にせき立てられた感じ、つまりこれこそ「急がしさ」と言えるものの本質であるけれども、それを自分の血肉とし、逆に喜びに変えている人々も多いのではないかと想像される。
時々は「忙しい、忙しい」と口に出してはいるが、無闇やたらに走りまわっているだけで、大して実のある成果も出さず、ただただ「忙しそうに」動きまわっているだけ人もいて結構まぎらわしいが、いずれにしても忙しさを求める人、そうしてそのような苦痛に自らを投げ込める勇気のある人、それに耐える忍耐力のある人でしか大業偉業を成すことができないように思える。

もしかして今の厳しい世の中にあっても、「怠惰のかたまり」のような人も何らかの生きる術はあるかも知れないけれど、人並みの生活を得ることは昔のようにそうそう簡単にはいかないのではないかと思える。

「多忙は幸である」
「頼まれ事は有難いことである」
「暇は悪である」
「小人閑居して不善を為す」
「怠惰は克服すべき人間の悪癖である」
というような言葉を持っていると、多忙の苦痛は少し減じてくるような気がする。これも受け取り方は多様であるので確言はできない。

そしてさらに「適当な多忙さ、もしくは自分の意志により選択された多忙であるならそれは健康に良い」、言い換えるならば積極的多忙さというようなものは人生にとって好もしいのではないかとさえ思える。

世の中には仕事がなく、暇で苦しんでいる人も多い。
今は不景気だそうである。
ヨーロッパやアメリカの失業率は10%だそうであり、それが50%や90%の貧しい国々もいっぱいあるそうである。

こういう時代であるから安易に「多忙の苦痛」を述べるものではない・・・と思える。

多忙大歓迎。
実のところ多くの商売人にとって今でもやはり忙しいのは善で、ヒマは悪であるし、ヒマはすぐに作り出せるが商売上好もしい多忙さを勝ち得るのは並大抵ではない。

繰り返すが医者は結構多忙である。
それをキチンとこなし患者さんの苦痛をとり、病を治し心を癒やせば少しは人々や世の中に為になる。
それを実現する為の多忙さならば誠に慶賀すべきことではないだろうか。

何せ医師国家資格を与えられる為の教育費は国立大学のように官費であろうと私費であろうと総計1億円はかかるらし。
官立大学の卒業生はお国の為に一生懸命働くべきであるし、私立大学のそれは、それを出してくれた親の為に、そしてやはり同じようにお国の為、人の為にその知識と技術を使わなければならないのではないか・・・と思える。
少なくとも1億円分の仕事は最低でもするべきであろうと、常々考えている。

ありがとうございました

濱田朋久


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