コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 知的会話術2009. 5.18

素敵で楽しい会話をしようと思うのならば心がけることは「言いたいことを好きなように言わない」こと。つまり言いたい放題というのが一番イケナイということらしい。

こんな大切なことを55歳にもなって初めて知るなんて我ながら情けない話である。

感じのよい微笑をたたえて、静かにお行儀良く相手の話を聞けばよいということであるらしいが、このような態度は或る意味極めて不正直で不道徳な会話の姿勢とも思える。即ち、「言いたいことを言わないでいる」というのは消極的な虚偽が含まれていると思うからだ。
このことは本人も周囲の人も意外に気づきにくいことである。何故なら、そのような会話の態度というものは穏便にすますとか大人の態度というものに、純粋で正直な子供の世界から見ると、まるで耳に優しいうまいことばかり口走る嘘つきの所作であるとも思えるからだ。

或る意味、大人の社会というものは、かなりのストレスをかかえながら生きる「嘘の社会」とも言える。
しかしながら、そうでなければ生きていくことは難しいのではないだろうか・・・。バカ正直というくらいで正直な為にバカと思われてしまうこともあるであろうし、実際にバカをみることもあるからである。

人間社会では自分の言いたいことは慎重に言葉を選んで話さなければならない。
逆に相手の話すことは注意深く耳を傾け、上手なあいづちをうち、解釈し、言いたいことを理解するだけではなく、相手の真意とか意図とか背景となる感情というものを汲み取らなければならない。
このような高度な技術を持ったカウンセラーのような態度でなければ楽しく、美しく洗練された会話にならない。ということは、酒を飲んだり、酔っ払ったり、疲れてアタマが働かなかったり、体調が悪かったりしたら、人との会話などは避けて「失礼します」と言って自室に引っ込むか、静かに一人でいる場所を見つけて、ひっそりと隠れている方が賢明な人間の選択のように思える。

人間社会を真面目に立派にキチンと成り立たせるというのは、結構、骨が折れるものなのである。

こういうことが、家族関係のようなごく親しい間柄であればあるほど、慎重でなければならないということは、一般の社会では認知されていないように見える。成人してしまった子供を持つ親であるとか、厄介な性格を持った夫や妻だとか、職場の同僚であるとか、上司や部下などの場合には、それこそ相当なアタマを使ってそれもできれば自然に振舞う必要がある。人間関係の極意というものが、小学生や中学生のギャングエイジにおけるトモダチと同じようによく学べる場であると思える。

面倒臭がらずに、よく話しかけたり、挨拶をしたり、多少無視されたりしても挫けずに根気良く挑戦しつづけていくことで、少しずつ馴れてきて良好な人間関係という人生における快適な環境をようやく勝ち取ることができるというワケである。

ヤレヤレ大変な作業である

かくして、人間は、自分にも他人にも気づかれないような上手な嘘のつき手となり混乱した人間社会を生きていくという次第である。

本来人間の本質というものは、正直で自由な人間にとっては、自閉症的ではないかと考えている。
即ち、嘘をつきたくないならば、自分の中に閉じこもるしか手がないような気がする。上手な嘘つきは社会を堂々跋扈し、正直人は、心静かに引きこもるしかない。

確かに真の意味での正直な人間というのは殆んど沈黙しており、滅多に口を開かず、また他人の話もその正直さを測定しながら聞き入れるようであるがこちらも美しくもあるがややもの悲しい。
だいたい知的会話というものは国と国との外交問題のようなもので、嘘のつき合いのようでもあり、マジメに観察していると誠に滑稽でもある。

これはパーティーとか、集会や会議等の場面でも、酒を飲まずに集団や個人を意地悪く、冷静に観察していると、明瞭に誰にでも読み取ることが出来る筈であるが、多くの人々は酒の酔いと虚礼と虚式
と虚栄とに自地共に騙されて一見バカのようにしている。
それは沈黙している人も饒舌な人にも言えることで参加している人は、無邪気に走り回る子供よりも愚かに見えることがある・・・
というワケで筆者の場合、パーティーなどの式典というものにもあまり参列しないようにしている。
何故ならば、嘘をつく、偽る、仮面をかぶるのは結構なストレスであるし、他人からバカと思われるのは、チットモ構わないが、時々仕事に差し障りがあるような気になるのでどちらにしても、賢者ぶって隠遁している方を選ぶようになった。

或る意味で悲しい話である。

ありがとうございました。
濱田 朋久



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