[戻る] |
■ 裁判というもの | 2009. 5.18 |
近々に、裁判員制度というのが始まるらしいが少し心配である。 そもそも裁判というものが、どういうものであるか少し検討吟味してみたいと思い筆を執っている。 よく世間では告訴するぞ・・・という風に人を脅す人がいるが、確かにこれには、或る程度の効果がある。告訴された側の人はいきなり「被告」になるワケで、これではまるで犯罪者のような誠にいかめしきく、空恐ろしい響きの「人間」にされてしまう。 訴えた側の人間は「原告」と呼ばれてこれまた被告とあまり変わらない何かしら曲々しい存在となる。 こういう法律上のシキタリになっているので仕方ないが、国家の法律と社会秩序と倫理道徳とを併せもったような立派な制度という風に何となく世間では思われていようであるが、これは少しマチガッタ、錯誤された認識である。裁判官という法律の知識を持ったリッパな人が、最終的に人に判決を下すワケであるけれども、先述したような、法律と社会秩序と倫理道徳とそれらを、あいまいにであるけれども兼ね備えた人間と仮定して、これまで裁判が行われて来たので、新たに裁判員(アメリカの陪審員と同じようなもの?)という一般の人々から無作為に選ばれた人々が合議をして「判決」に加わることになった。 医者とかもそうであるが、司法試験に合格したからと言ってただちに高潔な「人格者」になるわけではない。またそういう「能力」は普通の試験では測定できないし今のところ実際に測定されてはいない。 あいまいなものを裁判官という特殊な法律家の手に委ねてしまうのではなく一般ピープルも少しは関わろうじゃないかと言うワケで、あいまいなものがさらにあいまいになる次第であるが、全体としては裁判という雲の上のような問題が急に一般社会に根付くことになるかも知れない。 裁判員制度が発効されるようになった国の真の意図は不明であるし、最近では色々と反対意見が識者からも噴出しているようである。 筆者は法律家ではないが、とりあえず少し、裁判という制度を整理しておきたい。まず登場人物であるが、 @ 原告 A 被告 B 弁護士 C 検察官(これは刑事裁判の場合に登場する。国家とか警察の代理 人みたいなものである) D 裁判官 そして今回、E裁判員というものが登場して来たということになる。 訴訟と言うのは謂えば争い事、喧嘩であるが、民事裁判の場合その目的は殆んどお金である。モチロン正式な謝罪とか名誉などの権利回復というものもあるにはあるが、概ね、それは金銭の取得確保が主たる目的であることが多い。 刑事裁判の場合、国家の法の番人たる警察に逮捕された人が(犯罪の容疑者)国家側の側に立つ検察官を通して裁判に訴えられて法の下に裁かれる。この場合、容疑者は弁護士を立て(国選弁護人というものである)裁判所で争うワケで容疑者の段階で警察に原則として拘置されるので真犯人でない人が捕まった場合、誠にお気の毒である。(モチロン保釈というものもある) 刑事の場合、禁固刑とか死刑とか懲罰が民事の場合の金銭に当たるように検察側の主たる目的となる。 民事の場合、原告と被告は個人や企業など、自治体や国家というものであるが刑事の場合、普通、原告は国家ということになる。 実際の裁判によると、裁判官を行司(レフリィー)にした、弁護士対検察官もしくは弁護士同士もしくは弁護士対個人の争いを、裁判所というところで、おこなうワケであるので被告とか原告とかは登場しないこともある。特に民事の場合は弁護士同士の戦いになることが多い。 弁護士と検察官と裁判官とは司法試験に合格した、法律の専門家ということになっているが、世間で思われているほど、法律に詳しいとは限らないこともあるらしい。かなりいい加減な人物もいると聞いている。これは、医者の世界も同様でいつも述べているようにあらゆる専門家集団というものはある程度その専門知識についても疑ってかかった方が良い。どこかのゼネコンみたいに丸投げするのは禁物なのである。 民事ではよく「示談」というのが裁判の手前であるけれども、これは、結構良い制度である。まあまあ、なあなあと話し合いで折り合うワケであるけれども、裁判の本場、アメリカでもかなり汎用されていてある意味で便利な制度である。 モチロン刑事事件には普通適用されない。 筆者の述べたいことの要旨はこれら、裁判の骨組みは或る程度知っておいた方がイザという時に一般ピープルとしてもよろしかろうと思うからだ。 さらに最近では法律に詳しくなくても訴えた方が必ずしもお得ということは決してないということを知っておいた方が良い。 訴訟をしたほうが、弁護士費用・裁判費用等、損をする場合も多いし民事の場合、逆訴訟ということもあるようだ。 法律の枠内で暮らす、小心翼々たる我々一般人としては、原告・被告に限らず、裁判沙汰、警察沙汰などというものは、できる限り避けたいものだ。裁判員というものにも出来ればなりたくないものである。 世の中の仕組みとか文化など色々裁判の場合にも参考にされるが、日本の場合は。大きな事件の判決がマスコミの意見に左右されることが多いように感じる。マスコミは世間の代表ではないがそんな風に自然に、その存在そのものが巨大化しているように思える。 ありがとうございました。 濱田 朋久 |