コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ SかMか2009. 5.11

数年前に或る飲み屋さんに行った時の話である。
そこのホステスさんのいかにも得意気な話題であったのであるが、少し思うところもあったので少し書いておきたい。

「あなたはSですかMですか?」と問われたので思わず冗談でオレは「L」と言ってしまったが・・・

S:サディスト、人を虐めて喜ぶ人
M:マゾヒスト、人に虐められて喜ぶ人

飲み屋さんに行くと、お客さんは、だいたいS(サディスト)かM(マゾヒスト)かに分別されるそうであるが、筆者の推測が正しければ、恐らく、高級クラブに行くほど、Mのお客さんが多いのではないかと考えている。何故なら、高級クラブに行くような人は多分お金持ちであろうし、或る程度の成功者であろうと思えるので、一代で自らの力で偉くなったり、出世したりするような人は、殆んど、Mの人であろうと思えるからだ。

どうして、成功者はMでなければならないのかというと、努力というのは、或る意味で、自分を苛めること、責めることである。幼い時から楽しいこと。楽なことを我慢して、自らを勉学やスポーツや芸術の世界で鍛錬して来た人でなければ、一業大業を成すことは恐らく決してできない筈である。

うさぎと亀の寓話ではないけれど、イエローハットという会社の創業社長で「掃除の会」で有名な鍵山秀三郎氏によると、成功のコツは二つあるそうな。それは「コツ」と「コツ」であるそうな。
何だか、笑い話めいているが、コツコツ努力した人だけが、成功の甘い蜜をあじわえるということらしい。もっともである。
努力をしなかった成功者、成功したアスリートなど見たことはない。

こういうことのできる人はMの人しかいないと思える。
他人を出し抜いて、苛めて、出世する人もいるかも知れないが、そういう人は殆んど、マチガイナク二世の国会議員か二代目、三代目の経営者だけであるのが、このような人が時々政界に散見される。しかし後々には大概、その馬脚を露わにされて大きな恥をかくか、歴史の判定でほとんど悪の張本人として悪名をあげられるようだ。

また、サディストの独裁者というのがいて、結構人気があったりするがそれは多くの大衆がマゾヒストではないかというのと、政界を支える成功した経営者の中にもMの傾向の人チラチラ混じっているからではないかと考えられる。

ナチスドイツ時代のヒトラー
ソ連時代のスターリン
北朝鮮の金正日
我が日本の小泉純一郎氏などは相貌にサディストの表情がありありと出しているが、大衆的人気は抜群であるし、ヒトラーとスターリン以外はご両人ともに2代目である。

欧米の映画には、社会的身分の高い人がSMクラブかなんかで、女の人に裸にされて、縛られて鞭打たれて、喜ぶシーンが時々でてくるが。これは一見、誠に奇妙に思える心理場面であるけれど、考えてみれば、至極当然なことである。
つまり努力の人=Mの人=偉くなる人、と多少強引に理屈づければ、幼児期からの厳しい「躾の味」が忘れられないのであろうか、仕事で消化しきれないほどのMっ気か、所謂努力(Mの行動)を中断してしまったが為に余ってしまったエネルギーが実際のマゾヒストの行動として、発露してしまったのではないかと考えられる。

モチロン、努力を続けている人とか、サディストに転化してしまい部下や社員やお客さんを苛めてしまう人もいると思えるがこういう人々は最終的に失脚(「脚を失うというのは部下や目下の人からそれこそ足をすくわれる。脚を失くす)してしまうことが多いようだ。

結論的には、立派な人間とは基本的にMの人であり続ける人で決してSの人でない・・・と断定して良いと思える。
中途半端なSとかMとかの人はいずれも大したことはない。
心や優しきMの人のみが、少なくとも世間的に名を残すような偉人になるのではないかと思える。

マザーテレサとか、イチローとか有名人をいくつか想起してけれども、「自虐の人」(Mの人)と思えなくもない。
筆者の勘違いであろうか。

アメリカでベストセラーになった現代のアスリートの頂点とも言える人の自伝的ノンフィクションを読んだときに、勇気ある人の自虐的といえる苦痛への倦くなく挑戦を知り、この理屈を心密かに確信したことである。
自虐とかMの人とかの表現はまだ不穏当と思えるが、筆者の正直な感想である。

飲み屋さんの話題も結構奥が深いのである。

夜の店の女性達はやってくる男達をキチンと値踏みしなければならない。店を儲けさせてくれる男か?そうではないか?
この時に相手がSかMか判断しておくことは、とても有益であろうと思える。Sならば従順にやや悲し気にカワイソウに苛められれば良く、Mならば、少し粗っぽく冷たく厳しく、接すれば良いのだ。
店の責任者、つまりママさんがサービス業の割には威張っていたり、性格が悪かったり、その上、性的魅力がムンムンの大量のフェロモンに包まれたエロスの塊であるような女性でなくても、結構店が繁盛していたりするが、これは、「金持ちMさん」をいっぱいお得意様、常連客に持っているからであろうと推測される。

筆者はSでもMでもあるかも知れない。多分プチMであろう。人を苦しめて喜ぶという趣味はない。
世の中にSMプレーなるセックスの技術があるが、これは純粋な信頼と愛とに裏うちされた優しさのぶつかり合いなのである。本当にSがやたらに異性を責めたてるのは、ただの暴力である。性というものを介した愛の交感では決してないのである。

ありがとうございました。
濱田 朋久



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