[戻る] |
■ 運というもの | 2009. 3.19 |
世間では社会的にも経済的にも家庭的にも成功した人、うまくいっている人に対して「あの人は運が良かった」という表現をするが、当の本人にとっても「自分の実力である」と言い切るような人は大概本物の「成功者」ではなく、殆んど「成功した人」という人々の多くは自分は運が良かったと本心で述べられる。 つまり「運の良い人」とは、自分が「運が良い」と信じている人であるとも言えるようであるから、運の良い人になりたければまず「自分は運の良い人間である」と断固として信じ思い込み、口に出すことではないかと思える。 逆に運の悪い人というのは「すべて自分の実力である」という風に傲慢に考えてしまってのぼせ上がっていて、そのために成功できないか何となく失敗してしまうような人を指すのではないか・・・と考えられる。 即ち一般的に実力主義者の方が運が悪く、多分に他力本願的で「自分は運が良いから」成功できましたなんて信じているノーテンキな人の方がどうも結果的に運が良いように思える。 この「ノーテンキ」というキャラクターも結構大切で「何とかなるさ」とか「運頼り」なんていう人生全般への態度も、マジメな人々が言う程悪くない生き方なのではないだろうかと考えている。 このことについて少し実証検分してみたい。 「運」という字は訓読みだと「運ぶ」と読むので、どうも流れているとか動いているとか何かしらの変化流転を思わせるので、その時々で自在に方向を考え、上や下や右や左やあらぬ方向にも変遷していくものらしい。 ということはこの動きそのものを「運」という風に捉えるならば、「良運」というものを掴むにはいくつかの手法というか法則というものがありはしないかと思うのであるが、時の運、人の運、天の運立体的に捉えると人間にとって良運を得る為にはどのような工夫をすれば良いかというと、まず時の運を逃さない為には時々刻々と変化運行している「時」を有効に実利的に自分の為、人の為、世の為に役立つように必要があるが、これには人の運(人運)にもつながってくるが、いつも勉強をし知識や知恵をたくわえ、いつでも自分の為や人の為に使えるように準備しておくことが肝要であろうと思える。 つまり、常日頃からよく時を惜しんで勉強をして、時宜を選ばずそれを使って人や社会に喜んでもらおうとする心がけで大切であると思える。 また天の時(天運)を得る為には、天地大宇宙の運行や変化に謙虚に心を澄まして目を向け、耳を傾ける必要があるのではないか? 中国の古典の易学書にはこのことが割合キチンと明記してあるようだ。 「占いなんて信じない」という態度の人々には、このあたりのニュアンスに対する洞察とか深考が欠けているような気がする。 手相、人相、姓名判断、星占い、カード占い、ぜいちく占い、辻占いなどありとあらゆる占いにはある程度の根拠(エビデンス)が存在しているのに、単なるオカルトと片づけて無視する人も結構いてモッタイナイなぁと思える。 そもそもオカルトとは「隠された」という意味で、物事の本質とか根源とか背景とか潜在的理由とか意外にも神秘的で理路整然と理屈を解き明かしたものなので、実は人間の場合、敬虔な態度でうやうやしく接する必要があるのではないかと思うが、このあたりも不運な人、悪運の人という人々の方にこれをおろそかにする人が多いように見える。 ところが、この敬虔さのかけらもない、無神論的で低俗な欲のカタマリのような人の中に意外に良運に見える人がいるが、これはご先祖の余慶であることが多いそうだが、逆説的に人間のオカルト的なものも含め、ありとあらゆるすべての「とらわれ」を脱した「悟りの人」とも言えるので、結構良運、吉運の境遇であったりするのでヤヤコシイ。 このように「運」というものを信じない人も実は運の中にいるのであるが、浅学にして失礼ながら気づかないだけの「オメデタイ」人なのかも知れない。 申し添えておくならば、変に頑なに特定の宗教にかぶれて、これを頼りにするのは無神論者より始末が悪いが、この理由は簡単に言うと、運というものの本質からすると、動きのある流動的、流転的な事柄に対して、頑なにあるひとつの教義(ドグマ)で固められているので、かえって悪運を捉えるか良運を遠ざけてしまうという理屈である。 タコヤキをいっぱい頬ばっている人にラーメンは食べされられないのだ。 これは例が悪いが、タコヤキを悪運、ラーメンを良運と敢えて仮定したと考えての表現である。 そしてもうひとつ重要なことであるが「良薬口に苦し」という諺があるが、これを同じように「良運、心身に苦し」みたいなこともある。 つまり、自分にとって損なことのように思えることの方が幸運、良運を招くことが多い理屈であるが、この例はありとあらゆる童話や民話にこれでもかこれでもかと出てくるのに、悲しいかな多くの人はこれを忘れて、楽な方、苦しくない方ばかりを選択して、結果的に大した人生の実りも成果も得ずに一生を終えてしまうことが多いようだ。 イヤそうなこと、辛そうなこと、苦しそうなことの中に多くの宝物が、それこそオカルト(隠されている)されているが、殆どの人はこれに気づかない。 まとめて、良運を得るコツというと、イヤイヤで良いから一生懸命勉強しつづけること(時運)、頼まれたことはイヤと思っても少しの無理をしてやってあげること(人運)、苦しそうなこと辛そうなことを敢えてやってみること(天運)、これを昔の人は「修行」と表現した。 ありがとうございました (このコラムも実はイヤイヤ寝る前に書いている) 濱田朋久 |