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■ 月の裏側 | 2009. 3. 3 |
早めの夕食を摂った後に2時間ばかり眠ってしまい、夜の10時頃に目覚めてオートバイに乗ろうと思ったところ、生憎の雨。 それも闇夜であったので車でドライブをすることにした。 二人乗りの国産のスポーツカーを駆って雨中の夜に飛び出したものの目的地がない。 こういう場合、コカ・コーラの自販機を目印に進むのが常であるけれど、フッと思い立って深夜の山中の国道は一体どんな風になっているだろうという好奇心を覚えて、車の鼻先を山へ向けてみた。 筆者の住居は田舎の盆地にあるので、隣町へは今では大概長いトンネルが掘られている。 その為に殆ど曲がりくねった山道の旧道が存在する。 2月の雨の晩にそんなところを走るクルマなど皆無であるから、さぞ恐ろしい程真っ暗で、寒々として、淋しくて・・・と期待して少しばかりの冒険心を奮い立たせ雨の山中に向かってみた。 山林の道路で車を脇に寄せて、車のライトを消してエンジンをとめると、星空も月も無く、いきなり暗黒の中にポツンと取り残された気分になった。 一瞬、盲目になったような心持ちもする。 ひょっとしたら近くに死体でも埋められているのではないかと思ってみたりもする。 車と二人きりである。 もしかして車が再始動しなければ携帯電話で助けを呼ばなければならないが、その場所は電波の届かない場所であるらしく、一瞬パニックになりそうであったが、エンジンが始動しない可能性は99%無いので、試しに車を降りて傘をさして道路を少し歩いてみたところ、闇夜の山中というのは本当に不気味な程真暗で、静寂で孤独であった。 この時にいつも疑問に思っていた宇宙空間の、例えば木星だとか太陽だとか、月だとかの近くの暗黒のひとつの場所の「存在」を確信して、心の中に奇妙な安堵感と失望の入り混じった感慨を憶え、さらに「空虚な平安」というような気分も生じさせられた。 自分の存在というものが、地球上にハリついたケシツブかゴミのようなものと考えるならば、この広大無辺の宇宙というものへの認識が一体どんな意味を持つのだろうかと自問した時に、それは人から与えられた科学知識によるただの妄想であって、実際はそんな宇宙空間というものは存在していなくて、実のところ自分自身の「実感」だけがこの世界そのものではないかと思っていたが、実際にそれらの空間がこの世界の宇宙の「場所」として存在しているということを、この雨中のドライブでの奇妙な経験で実感したという次第である。 この今降っている雨はいたるところ、例えば空中のある場所でも降っていて、闇夜の山中でも降っていて、街の片隅にも我が家の屋根瓦にも降っているという明瞭な現実というものが、あらためて筆者を驚かせたのであるが、それは何故かというに自分というものを取り巻く世界というものへの好奇心が無くなってしまえば、それらは存在しないのと同じことであるので、殆どの人々にとって「月の裏側」とか、星空とか、太陽とか、自然とかは全く意味が無く存在しており、それらを「意識」した者のみがそれらを実感し楽しむことができるのではないかということをお伝えしたかったのである。 今この瞬間も地球は自転し公転していて、モチロン月も地球の周囲を移動しており、それらの宇宙の空間というものが存在し、機能して私達の生命活動を支えてくれていると思えば、人間の活動のささいな出来事などどうでも良くなっているし、逆に物凄く愛おしくもなっているものではないだろうか? 筆者の場合、特に奇矯な行動をしようと思っているワケではないが、何かしらあまりにも日常の決まりきった人間の活動というものに少しく反発と倦怠もあるので、どうしてもこんな生の実感というものを味わいたくてオートバイとかクルマとかを使って、非日常への軽い飛翔を試みてしまうという性癖を楽しんでいる。 まさか南極探検とか、エベレスト登山とか、太平洋のヨットでの横断なんていう冒険はとうていできないので、プチ冒険・ミニミニ冒険でそれらの感覚の一瞬でも味わって楽しんでいる。 今のこの瞬間にも大いなる時間は刻々と刻まれており、それらの空間への刻印が宇宙のあちこちで雄大なスケールで偉大な調和でもって進行しているという事実への認識は、筆者の心を心から安心させてくれる。 不思議なことだ。 説明できる理由も見つからないけれど・・・。 ありがとうございました 濱田朋久 |