コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ LITTLE WHY?2009. 1.29

中学1年になった我が愚息をしみじみと眺めてみると、その存在の発端というものが我が愚妻と共同で行ったささやかな「アヤマチ」に存していることに思いを馳せるが、その行為のさまは今でもありありと思い出すことができるのは果たして悲しむべきか喜ぶべきか?
つまり、それだけそのような行為がそれ程多くは無かったということでもあるが、そのこととは関係のないことで、この章で述べたいことの要旨はこのような「生命の実存」というような本人にとっては極めて重大な事実がその両親のチョットしたはずみのような性の衝動によって生じたホンノささやかな出来事の結果として在るということをお伝えしたいのだ。
もっとつきつめていくと、この世の中のあらゆる現象というものが実は大した理由もない、言うならば「ささやかな出来事」のよって生じており、あの時になんであんなこと言ってしまったのだろうかとかというような疑問にブチ当たって、そのカラクリに対してある種芒莫(ぼうばく)とした不安のともなった興味と好奇心を感じてここに記している。

あの時あの事は何故私に起こったのであろうか?

私自身は何故今この時このようにあるのであろうか?

このような疑問を胸の内に少しだけ抱いた時に、自身の現在の状況については多少いたしかたないとしても、こと未来については少しく精妙に精密に自分自身の欲望とか感情とか考え方とか感覚とか行動のパターンなどのありかを点検し、整えておくことはとても大切なことなのではないだろうかと考えているのだ。

つまり自分のチョットしたハズミで思いついたこととか、チョットした心の動きというものが自分自身を思わぬ幸運にみちびいていくかも知れず、またとんでもない悪運に結びつけられていくかも知れず、あだやおろそかに自分の思いや言葉というものを善良で良質で、できれば高尚なものにしておくことが自らの未来の幸運と安全の為に最低限絶対的に必要なのではないかと思えるのである。

これは慎重すぎるとか、用心用心とか油断禁物というような窮屈な心の態度ではなく、いつも素晴らしい未来の為の心の準備の意味で行動とか習慣とか言葉とかをよく吟味し、鍛錬し、調整しているということが、ほんのささやかな日常の事故や出会いやハプニングに処していく上でとても役に立つのではないか思えるからだ。

「日頃の心がけ」が良い偶然をつむぎ出すというのは昔からある格言であるが、この「日頃の心がけ」というものと「Little why?」というものに心を向ける為にはどうしても一度心を静かに整えて、静かに良書を紐解くとか筆を取って白紙に向かうとかの作業をする必要があると思えるのである。
テレビとかを消して酒もつき合いにも少しだけ控え、心静かに星空を見上げ、時計の音や山びこのような街の音でも聞きながら自らの心と勇気をもって直面することが大事なのではないだろうか?

少なくとも小さな疑問 little why によって生じた自分の考え方、感じ方への洞察というものが人生の良果を得る為の良質なひとときを提供してくれるのではないかと思える。

ありがとうございました

追記@
「あの時あの事が何故?」
この little why を持ってまず自分の存在に思いを至せば、両親の出逢いから、またその両親の出会いまで想起せねばならず、この自分の肉体や感覚をふりかえると、まるで奇跡のような有難い存在であることに気づかされるし、さらに我が幸福や幸運やらに思いを馳せると誰かしら大いなるものに絶対的に守られていると確信させられる。
自分が何故幾人かの友人のように病気でもなく死んでもいず、まるで幸運幸福の権化のように豊かな日本に生まれ、豊かさを享受していて幸せを無闇に有難く思えて落涙するほどである。
今は世界中大不況とマスコミであるが、今の日本の餓死するも稀であるのはそもそも大不況と言えるのであろうか?
感謝感謝である。

追記A
かくして心を平らかにして子供のように新鮮な感性?「小さな疑問」というものに挑戦していけば、普通の知能の持ち主ならば自然に「感謝」という確実に良い気分になる心の状態にいたる筈であるが、ナカナカ思い込みや被害者意識の激しい人はこのようにはいかない。

little why → thank you
「なんで?」 → 「怒り」

ではなく本当は「感謝」なんだけどなぁ〜
あいだみつお

なんちゃって〜

濱田朋久



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