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■ BIG WHY? | 2009. 1.24 |
「大きな何故」という訳というより「使命」みたいな意味だそうである。 自らの人生に大きな使命があると仮定するならば、それは一体どんなものであろうか? このことについて少し書き綴ってみたい。 さまざまな出会いや出来事や事件や知識など「自分の時間」に飛び込んでくる事柄にはどんな示唆が含まれているのであろうかと思いを巡らせてみると、このBIG WHYが分かるかも知れない。 筆者の場合、どんな出来事にも何かしらの啓示や示唆や天恵みたいな大いなるものからのメッセージに捉えるクセがあって、これは「この世に偶然はない」という考え方・哲学から来ている。 50年以上の半生から読み取れることのひとつは、この大いなる理屈である。 ツラツラとわが半生を振り返ってみて思うのは過去のひとつひとつの出来事がひとかけらでも欠落したら「現在の自分」というのは、この状態では存在しえなかったであるが、実のところことの重大性というのは「その時」には全く思いもしなかったということだけは明々白々と断言できる。 というのは、今現時点で生業としている生活や仕事の重要なポイントというのが、ほんの小さな小さな「出会い」やほんのささやかな「出来事」の中に存しており、そのわずかなタッチに接して自分自身をホントウに誉めて上げたいなぁというか有難いなぁという気質のひとつの一番は意外なことに「素直さ」とか「従順さ」とか「粘り強さ」とかと呼ぶべきものである。 何故かというと、その一瞬の出会いや出来事に対して大概はややノーテンキに「まぁいいか」とか「仕方がない」とか言いながら、それらの人々や事柄にシブシブながら従って来たのであるが、それが全て「吉」となっていて、頑なに拒んだことの殆ど全てが「モッタイナカッタ」なぁとつくづく今さらながら思えるのである。 逆に言うと、以前にもこのコラムのシリーズで書いたことであるが、頑固さとか頑なさというものがいかに損であるかの証左にもなっている。 他の人の人生を見渡してみても、現在の不遇さをかこっている人々の特徴的気質と言えば、アイツに騙されただの、チャンスを逃しただのと言っている人よりも、人の言うことを聞かないで頑なに自分の考えに固執している人の方がはるかに多いように見受けられる。 つまり自らの頑固な特質の為に人生における色々なBIG CHANCEを勝手に取り逃してしまっているのだ。 またそしてそのことに気づいているひとはあまりいない。 日本のバブル時代の時にも「売ってくれ」と言われて素直にサッサと売ってしまった人々の方がはるかに得をしている。 一方金融機関に勧められてドンドン借金をして不動産や株を素直に買ってしまって損をした人もいて、素直は良くないと反論する人もいるかも知れないがこれは「欲」で失敗したのだ。 筆者自身もバブル期にやれどこそこの株を買いましょう、マンションを買いましょうと言われて買ったことはなく、そのことで損をしたことはないが、それはひとつは仕事が忙しくて面倒臭くて全く興味が無かったという理由であるが、母親とか弟とか家人のそれらの勝手な購入についても今はやや損をしている気がするが、全体として見れば何ら失っているものはなく、実のところ益こそあれ害は少しもない。 先日も或る成功しているドクターの経営者の方にお会いしたが、この方も風のように生きていて、クルマが自然に向かったからゴルフ場まで来てしまった・・・ナンテ、トボけたことをこの先生は言っておられたが想像どおり傍から見た限りではこの方の人生はスムーズでハッピーそのものである。 話しを戻すが、自らのBIG WHYを思いつくままに書いてみると、大袈裟に言うと「医療の変革者」ではないかと思うのである。 こんな大上段から振りかぶったような大言壮語を自然に吐いてしまったが、真実の心の中のセリフである。 どのように変革したいかと言うと「当たり前のことを当たり前に自然に医療をしていて、医療供給側も受給側も大満足でハッピーである」という誠に単純なものである。 医学というのはもともと自然科学の最たるものであるのに、今は少しづつ東洋医学とかホリステック医学とかも取り入れられて来ているが、まだまだ世界的トレンドである西洋医学というものは逆にドンドン自然から離れて数字とかデータとか経営とか経済とか保険とか社会保障とか市場原理とかワケの分らない背景があったりして本来の医療の本義からズレて行っている。 そのような方向を修正する為には政治とか経済とかを動かす力はモチロン筆者にはないが、ホンノささやかではあるが少しは人間にとってマットウな屁理屈を並べたてて大衆民衆、市民レベルで変革していければと思っているのである。 全くくらべくもないがマザー・テレサの40代からのインドでの活動もほんの小さな一歩から始まったものであるが、これは筆者自身に少なからない勇気を与えてくれる。 次回はこの小さな過去の出会いや出来事からいかに大きな「駒」ができてしまったかを書いてみたい。 ありがとうございました 濱田朋久 |