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■ 人生は一度きりの冒険である | 2008.11.21 |
ふっと思い立って、土曜の午前中の仕事の後の少し長めの午睡の後、約100キロ程離れた隣の町の大きな本屋を目指して新しく手に入れたオートバイで出発した。 11月15日午後7:30、冷たい秋雨のそぼ降る闇夜である。 排気量が1700ccもある大型バイクであるが、取りまわしが楽で、まるで50ccのミニバイク、たとえばホンダのスーパーカブとかモンキーとか変わらない、可愛くてゴキゲンな乗り物ではあったが、雨の晩のソロのツーリングなどするヤツがいるかなぁと思いきや2台も逢ってしまったが、挨拶はしなかった。 筆者のように孤独と危険と冒険を愛する変わった人も結構いるのであろうか。 雨中のバイクで一番困るのが視界の悪さである。 そもそもオートバイという乗り物は路面を見て走るものである。 何故かというに、二輪という構造の為に路面の変化に物凄く鋭敏に反応するので、小さな石コロや水や油など、タイヤを滑らせる可能性のあるものは上手に避けて走るか、もしくは押し潰して走らなければならないが、夜の雨中の運転ではヘルメットについた雨をワイパーで払うこともできない上に、フルフェイスのヘルメットであれば、完全にクローズすると曇ってしまって全く前が見えなくなったりもするからさらに始末が悪い。 車の運転にたとえるなら、ワイパーを動かさないで夜の道路を中速で突走るくらいの恐怖感があるが、これも結構なれてはくる。 ヘルメットの透明なシールドを半開きにしたり、軽く閉じたりして雨を避けながら微妙に調整された狭い隙間から薄目を開けて小さな視界を確保してソロソロと走る。 時々クルマの走った後に浴びせられる怒涛のような強烈な水しぶきのパンチをマトモに顔に受けながら・・・。 何というバカか・・・と自らをののしることもできるが、全くこの出発と航路に後悔は無い。 寒さと水濡れと恐怖と・・・、これこそ冒険だぁ〜。 宇宙をフワフワと浮かびながら突き走る苦痛はその全体としてのオートバイを駆って走るという深い喜びを少しもスポイルしない。 つまり、乗り終わって味わう深い安堵感とか熱いシャワーとか心地良いアドレナリンの消費というものがいかに日常の人生生活にスリルと冒険と、ボンヤリとした憂鬱とか不安とかを取り去ってくれるかを思うと、バイクというものがとても有難いオヤジ(女性のライダーも多いけれど)の遊び道具と思われる。 目的地に辿り着いて味わうパスタも一味違うかと思っていたが、大したことは無かった。 いつものパスタである。 暖かくて明るい本屋の中をぐるっと徘徊して目的の本は「無い筈」であったが、思いがけずレジの辺りの「恋愛フェア」なる少しく女性向けを意識したコーナーにその本はあった。 「存在の耐えられない軽さ」。 819円。 文庫本。 チェコ生まれの亡命作家、ミラン・クンデラの傑作小説である。 いささか幻惑的な題名で、少しくオタメゴカシの印象を読前に持っていた著書であったが、土曜の晩の深夜に読み始めたその本もナカナカのものであったので、さらにこの夜のやや冒険的ツーリングの結末少なからぬ満足感を与えてくれた。 軽く「生命がけ」とも言える、少々野蛮で子供じみた肝だめしめいた雨中のツーリングも自らの人生の運試しとも言えるし、その結末に勝ち得た目的達成についての満足感と安堵感との入り混じった心地よいリラックスした肉体と精神に何かしらの哲学的メタファーの込められた恋愛小説なぞを読んでいると、これこそが幸福の極致とも感じれるくらい言葉にできない喜びの感覚が生じている。 それは、生の喜びというものは死の危険というものを感じさせる「行動」を半透明の薄皮一枚を通して垣間見せられることで実感できるものではないだろうか。 つまり、生を存分に味わうには死の間際近くに立っていることなのではないかと考えている。 そう考えると、日常の平々凡々たる安全な場所でアドレナリンなど全く放出しないでいると逆に生きることの退屈さ、憂鬱というものがドンドン心に湧き上がってくるような気がしてならない。 冒険、即ち危険を冒すことでしかみずみずしい新鮮な生の快楽を味わうことはできないのかも知れない。 「性の悦び」ですら真実は生きる精の喪失によって得られる死の快楽ではないかと言われている。 ありがとうございました 濱田朋久 |