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■ モーターサイクル讃歌 | 2008.10.29 |
所謂オートバイのことであるが、初めて乗ったのは17才の夏、知人の350ccのヤマハのバイクに乗ったのが初めてである。 その時の深い喜びの感覚は今でも鮮明に思い出すことができるが、あの感覚は今でも思い出すことができるが、あの感覚を今所有している250ccと1100ccのオートバイでは再現することはできない。 あの昔のバイクのドッドッドッという感覚は恐らくドカッティとかモトグッチとかのイタリア車でないと今は味わえないのであろうけれど、知人から借りてそれらの外国車に乗ってみたところ、やはり外車特有の乗りにくさと故障の多さを聞かされて、買ってまで乗ろうとは思わなかった。 現在所有しているカワサキのバイクであるが、これはいくつか理由があって、まずアラン・ドロンというフランスの有名な美男俳優が「ル・ジタン」というジプシーを主人公にした映画で、カワサキに乗っていて磨いてみせたり、上手に乗ったりしていて、また同じ俳優の刑事ものでもカワサキのビッグバイクにスーツでまたがってとても恰好が良かったのと、トム・クルーズのある大ヒット映画「トップガン」ではやはりカワサキのGPZ900Rというオートバイにとてもカッコ良く乗っていたので迷わず今ではカワサキのオートバイしか乗らない。 操作がややメカニカルでガチャガチャとした感覚が醸し出されているのと、スタイルがどっしりしていてコーナリングが自然で安定しているのと見た目も筆者の審美眼にマッチしているというのがあって、所有のオートバイを眺めているだけでウットリとしてくるが、真夏の夜の田舎の高速道路を軽装で飛ばす一種陶然とした深いヨロコビを感じることできるので、結構危険な趣味であるがどうしてもオートバイを決然と降りることができないでいる。 これはバスケットボールと同じように麻薬的な魅力があって、人間にとって極めて大切なかけがえのない健康と生命を危険にさらしているという自覚を持ちながらやめられないでいる。 ほぼ同世代の数人も同じようにオートバイを完全に手放すことができないようで、週に何回かは乗っているようであるが筆者の場合あまりの多忙の為にここ10年くらいは年に2〜3回乗れればマシな方、30分から1時間であったが先日の体育の日に250ccのバイクに乗って秋のすずやかな陽光の下を風を切ってバイクをころがした時には、あの昔日の少年時代の感覚を10分の1くらい堪能できて誠にシアワセな秋の1日ではあった。 その日はハイテンションで上機嫌で久々に若々しく躍動した弾むような心持に一瞬なれたので、25年来の友人のバイク屋さんに頼んで「集合マフラー」という心地良いサウンドと瞬発力を勝ち取る改造部品の取り付けを依頼してしまった。 今から楽しみである。 お陰でここ数日はとてもウキウキしている。 何故かというのに、バスケットボールの方はやはり今夏の暑さもあって体力の限界を感じて、一種暗澹とした自らの年令と気力に対する失望を感じていたので、オートバイについてはもう少しイケルかなあと確信したというのと、同世代の仲間がいるというのと、以前ヨーロッパへの旅行ではイギリス人の年配のカッコイイ男女のライダー達を目にしていたのでますます勇気づけられて再びバイクボーイならぬミドルバイクマンを気取って趣味としたいと決意したからである。 医者の同業者や、経営者や○○クラブの○○会の人々の通常一般に愛好されているゴルフというものにどうしても抵抗があって、あれは今のところどうしても自らの感性では受け入れ難いプレースタイルやファッションや、その持っている文化に対する美的感覚への違和感というものを何故払拭できずにいたので、今後の人生への大いなる希望をあらためて持ったという素晴らしい実感を得たという確信があるからだ。 また、或る程度の気力、体力や技術や知能や感覚の鋭さも若い時のように保持しておかなければならず、それも日々の鍛錬の動機の発揚として結構好もしいし、何しろ一人で楽しめるというのが誠に嬉しいところである。 ありがたや、ありがたや。 今や最大の希望は無事故、無怪我、無違反でできるだけ長くモーターサイクルを楽しみたいなあというものである。 ありがとうございました 濱田朋久 |