コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 社交と風聞2008.10.23

一般的に悪い噂とか良くない風聞というのは、社交の少ない人に対して向けられることが多いような気がする。
○○会議所とか○○クラブとか○○会とか、何らかの団体に所属しているというのは、この悪い風評とか噂から逃れるひとつの重要な手法ではないかと思われる。
筆者の場合、どうしても何故か巨大な尾ヒレのついた良くない風聞というものが、これまた良い風評と同じように聞かれるようで、今のところどちらが優勢か解らないが、或る一定の距離、つまりごくごく身近な人々とか逆に少し遠い距離の人々の場合にはそういう悪評というのが少ない一方で中間的な人々、つまり会ったことは無いが知っているという人々にとっては格好の噂話の餌食になりやすいらしく、ビックリするような噂も人づてに耳に入ったりして、一種暗然とした気分になることがある。
当地は山に囲まれた狭い盆地の為か「人の噂」というのが暇な人々の会話の中心であるらしく、寄るとさわると「人の話」である。
週刊誌と言うものの殆んどがこのような類の話材に満ち満ちているので、人間の興味の対象の中心はやはり人間が一番なのであろう。

よく悪くも社会というものの構成要素の最小単位である人間の行動や言動の評価合戦というのが人間の持っている強い性向のひとつらしい。

筆者の場合、仕事とか自分自身とか勉強とか何かしら興味の対象が人間の本質に迫りたいというものであるけれども、誰それとか誰かれとかの一個人に向けられることはあまりない。
もともと強い興味を惹かれる人物というものがあまり無いので、友達が欲しいとか恋人が欲しいとかはお陰様であまり無くなって精神的には何となく満ち足りた日常を送っているので、人々の噂話などには殆んど興味がなく、したがって社交にも興味がないので、殆んどの「会」とか「クラブ」にはとりあえず所属はしているが、ことさらにそれに進んで参加しようと思ったことはない。
何せ正直なところ、自分自身との毎日の格闘の為と仕事の為に心身共にヘトヘトであるのだ。

その結果として身に憶えのない悪い風評・風聞に噴出の一因とも思えるけれど、或る意味いたしかた無いことかも知れない。

「他人の不幸は密の味」ではないけれど、「他者の脱落が自分を助ける」という「競争社会」の避けることのできない弊害があって、人間の集団についてはどこにでもひとつの本能として死や病のような他人の不幸やあやまちを思わず知らず喜ぶ性質というものが多くの人々に備わっているように思える。

大地震や大災害、大事件という多くの人々にとっては極めて望ましくないニュースがメディアから流されると、人々は競って取材をし、読み漁り、聞き入り、熱心に情報を集めたりしている。

見方を変えると、そのような人間の集団の無意識的な行動というものを、少しだけ距離をもって眺めていると背筋が寒くなる程のおぞましさと恐怖を憶えることがある。

モチロンそのような気の毒な事件や災害に見舞われた人々に対して暖かい同情心や援助や救援みたい行動をせずにはいられない人も数多くいて、ホッとさせられるが、このような人間には二面性があって善良さ、悪辣さが共存しているようである。
まさしく人間の本質で、その偏りとか安定性を持ってその人物を測定しているようであるが、一般的に噂好きの人々というのはどちらかというと他者の不幸を喜ぶ人々が多いので、そのような人々との深い付き合いにはできれば慎重でありたい。

このような噂の対象になりたくなければせっせと社交に励むしかないが、あまりにも人品やマナーに問題がある場合には逆効果になることもあるかも知れないが・・・。

ありがとうございました

濱田朋久


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