コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 「人を殺すのに刃物は要らない」の科学2008.10.23

最近、緒方拳の死がニュースになり追悼の為の映画放映がつづいた。
やはりナカナカの大俳優・名優であった。
存在感もあり演技もうまい。
特に表情と声に凄みと暖かみがあり、凶悪犯の役も、慈父のような好々爺の役も演じられる、日本の名優・怪優のひとりではあったようである。

芸能人というと、癌の告知を受けて、マスコミに公表する人が時々見られるが、大したものだと思う。
一方で告知というものの危険性も少しく感じられて、医者としては黙しておられず筆を執っている次第である。

アランという哲学者の言葉に「人に顔色が悪いとは言ってはイケナイ」というものがあって、このことは筆者の父親から度々生前に聞かされていたので、自分から意識してそのようなことを人に告げないようにしている。

まだ医者になりたての頃、悪性の死病を患っている患者さんの家族から、予後(今後の病気の見通し)を訊ねられた時に、やや得意気に余命3ヶ月だの6ヶ月だの、1年以内ですネなどとエラソーに明言していたのを思い出して背筋が寒くなるというか、穴があったら入りたいというか、今では少なからぬ自責の念を今は感じずには思い出すことができない。

というのは、たとえば「余命数ヶ月」などと医者が患者さんやその家族に告げようものなら殆んど例外なくその通りになるものであるということに最近気付いたからである。

時々に生来の楽天性からか、余命を宣告された人々の中にも有り金を全部はたいて、貯金をすべて現金にして好きなことを好きなようにしてエゴ剥き出しにして自由奔放に遊びまわって、逆に余命を何十年も伸ばしてしまうか、奇跡的に治ってしまう人々の例がモノの本に書いてあったりして、また自分自身の患者さんの経験でもそういうタイプの人の存在を確認して、ここ10年以上は患者さんやその縁者の人々に余命を告げることはやめて、せいぜい「頑張りましょう」とか「大丈夫ですヨ」とか「何とかしましょう」とか少し気休めめいた言葉を相手の顔色をうかがいながら慎重に言葉にするようにしている。
どんな病気であれ、「希望」というものが絶無ということは絶対的には無いと信じたいからであるし、そういう例が無いワケでも、稀少例ではあるが、無いことはないからである。

先日見た「最高の人生の見つけ方」というジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンの共演の、末期癌で余命数ヶ月と宣告された男二人の友情と愛とその生きざま、人生観を映像と言葉で見せられた時に、エゴイストで金持ちで家族の愛や優しさを拒絶するニコルソンと、一方では家族愛の中で誠実に生きる善良な知識・教養人のフリーマンが出てくるが、これは映画の観賞前の予想どおり、余生を思いきり遊びまくった二人ではあったが、誠実なフリーマンの方が意外にも早々と死に至り、金持ち・エゴイストのニコルソンの方は81才の天寿(66才発病という設定)という結末で大変興味深かった。
何故かというに、一方はつまりニコルソンの方は運命とか余命とか社会の常識に逆らい、人を信じず、超エゴイストで長命であり、一方のフリーマンの誠実マジメ家族愛人間の早死という構図は日常的によく見かけるし、ほんの知識でも発見するし、臨床の経験も常々感じていることであるからである。

エゴの強い人は長生きである。
さらに、人の言葉を簡単に信じないのも長生きである。
運命に従言として従うのも立派な人の生き方ではあるが、逆境や運命に逆らい勇気と信念を持って挑戦するというより、断固として逆境を受け入れないというのも生命の維持には良い生き方かも知れないと思える。

昔読んだ本で「Will to be well」つまり「意思によって健康になる」という本があって、これなどは強烈な生きようとするエゴがあればたとえ悪性の病気であっても何かしら何とかなるものなのかも知れない。

言葉には強烈なエネルギーがある。
たとえば「梅ぼし」という言葉を書いたり聞いたり発したりした人を想像すると良い。
カンタンなこの名詞を口走るだけで多くの日本人ならば口の中は唾液だらけになる筈だ。

これだけ肉体の反応をもたらす言葉のエネルギーをあらためて自覚させられるのであるが、人を本当に殺そうと思った時には数人から100人くらいまでの人を集めてきて「あなたは○○日目には死にますヨ」とか「あなた顔色が悪いですネ」とか「あなたまるで病人みたい」と会う人会う人に言わせたならば100人目くらいにその言われた本人はキチンと病を得て死に至るかも知れない。

このような理屈は昔から知られていて、人に対しても自分に対しても決してネガティブな言葉を発したりしないように常々心がけたいものである。
まして悪性の病気の宣告など、まじめで正直な医者ほどしがちであるが、ここは勇気を持ってとりあえず「大丈夫ですヨ」と言っていた方が無難なのではないだろうか。
この言葉には相当に責任と重みがあるものであるが、少なくとも言った本人も言われた人もみじめで不幸な気分にはならないような気がする。
いずれにしても最終的に人間に生まれたからには全員マチガイナク死んでしまうのであるから、ワザワザ死の宣告など極悪的な犯罪者に対してでなければしない方がはるかに親切であるし、真の意味の「誠実」と言えるのではないだろうか。
いつも述べることであるが、なんでも正直に伝えることが人を幸福にするということは決してないと思える。

ありがとうございました

濱田朋久


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