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■ お金というもの | 2008.10.16 |
これはとても便利なものである。 とりあえずそれが日本円とか米ドルとかヨーロッパのユーロとかであれば、恐らく世界中の殆んどのとりあえず売っている物品と交換ができる。 あらゆるモノやサービスと交換できるという意味でこんなに便利なものは無い。 普通のサイズのビジネスバッグに1万円札をぎっしりと詰め込めば、大概の自動車から小さな家くらいまでは買える筈である。 これを交換機能という。 また、蓄積機能というものもあって、ドンドンこっそりとストックしていけば、ある程度のお金持ちになることもできる。 また、物やサービスの価値の測定の基準にもなる。 ○○鑑定団というようなテレビ番組などでは、このお金の機能を使って物の価値を測定して人々は楽しんでいる。 今の世界では殆んどの物や事柄の価値づけをこのお金という基準で測定しているかに思える。 だから、人々は常にお金というものの価値基準を片方に乗せた天秤を心の中に持ち歩いているようにも見える。 この基準としてのお金の機能というのは便利であると同時に物品の価値づけだけだけでなく、人間の価値づけまでしてしまっていることもあるようだ。 分不相応の死亡保険などかけてあれば、その領収者はすぐに警察からあらぬ嫌疑をかけられたりする。 人生にとっての最も価値のあるものは「時間」であるけれども、お金の使い方のうまい人は、時間を買うことが多いようだ。 自分の時間を人に支払うことによって生み出すのであるが、物品の購入も人を喜ばせることや、贈り物や富を生むもの、たとえば教育とか知識と情報とかとお金を交換することが多い。 お金の使い方の下手な人というのは、かなり自己満足的な物品、たとえばブランド物とか自分だけの楽しみだけにお金を使い、人の喜ぶこと、共に楽しめること、自分の知識や情報を得て、それらを使って世の中の多くの人に財やサービスを提供し、その見返りとしてさらに富を増やすという幸せな結果を招来することができないでいる。 このことは以前にも書いたように、お金持ちの法則に寄付をする人が多いという理屈に少し当てはまる。 つまり、与えたものが返ってくる。 「鰯で鯛を釣る」なんていう諺にも、世の中の商人の心根の基本が隠されているようだ。 投資とか投機とか株とか商品取引みたいなものの根本的理屈というのは「鯛を釣る」の話となんら変わることはないような気がする。 「財政赤字」というものも不思議な言葉だ。 国の借金というけれど、国民からの借金なのであろうか。 それならば国民と国家が仲の良い家族のように一体であるならば、別に踏み倒しても良いのではないかと思えるのだ。 日本国というものが、どこかの国の闇金融みたいなものに手を出して、複利でもって利子がドンドン膨らんでいる風でもなさそうだし、国民一人当り200万円くらいと巷間で伝えられる金額にしても「だから大変だ〜」とわめき立てるよりも一体どのように大変なのか一度くらい解りやすく説明して欲しいものだ。 最近ではバブル当時の不良債権処理も殆んど終束して来たようであるのに、太平洋の向かい側の超大国の金融危機のあおりで株安が進み、1時期2万円近くまで戻そうとしていた日経平均株価が一気に8,000円台までにまで下がってしまった。 市場経済放任主義みたいなネオコンサバティブと呼ばれる新自由主義者の考えが取り入れられ、やれ規制緩和だの市場開放だのまやかしとインチキに満ちた日本をはじめ世界中の経済構造がまさしく「金融」というひとつの言葉と、その概念の正当化とで上手に操られた一般大衆たちはただ搾取と保護と洗脳と煽動とを交互に繰り返され、まるで思考停止と同様の状態になってしまっているように見える。 多くの人間は世界をお金で測量する。 それはそれで良いとしても、世界というものを人間は真の意味で理解することはできない。 それは個人としても集団としても、それに参加と客観を同時にすることははできないからである。 自分というものを除外した世界は存在し得ないのに客観視と言った場合には、自分をどうしても除外してしまうからだ。 自分の目を自分の目で決して見ることはできないという理屈と同じように・・・。 けれどもお金というものにかかわらず、現代を生きていくことはできないように一瞬は思えるが、お金から自由でいられる世界はある。 それは超お金持ちの人の人々である。 彼らはお金で世の中をキチンと測量しているので、逆説的に「お金の世界」を超越することができる。 そのように意図しさえすれば・・・。 お金から自由でいる為には、今の世の中ではお金持ちになるしかない。 そうでなければ、知らないうちにお金というものに支配されてしまう。 時間の管理をしなかった人が、時間に追われてしまうように・・・。 追記 所謂、昔で言うところの月賦・割賦による耐久消費財の購入というと、利子の問題もあったり、現金で買いましたなんてやや自慢気に人に言いいたてする人を時々見かけるが、筆者の感覚では少し違うなぁと思う。 たとえば、300万円の自動車を現金で買ってしまった場合、普通にその車を使用していると3年で約1/3から1/4、中には1/10なみの価値の低下が起こり、6年後には普通0円になるワケであるから(特別な稀少年のある人気車は別であるが・・・)、その買った本人は300万円の財産を先取りして失ったことになるが、たとえばその300万円を持ったまま全額月数万円の長期の割賦(ローン)にしてしまえば、300万円の財産と、その車を購入した瞬間には300万円の物品と両方を得たことになる。 つまり、ローンというのは利子をつけて時間を買ったワケであるから、利息分を足せば例えその物品が400万円になろうと時間代と思えば損をした気にならない筈だ。 その上300万円の現金・預金が無い人であってもその等価価値と見合うだけの物品を手にすることができるので、誘惑的にその物品を販売しやすくなる。 そんなことはあり得ないだろうけれども、たとえば30年とか50年のローン、100年ローンなんて言うのがあって、そのために月払い額が極めて僅少であれば、その値段というのはただ同然なのである。 物品やらサービスやらお金などの目に見えるものに具体的には絶対目に見えることのできない時間という概念を経済感覚や人生設計に入れ込んでいくと、モノの価値とかへの感覚にチガイが出てくるので面白いかも知れない。 ありがとうございました 濱田朋久 |