コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 文字というもの2008.10.13

近頃は空前の美文字ブームだそうで、テレビの特集番組まであったりして美しい文字を書くというのが流行しているそうだ。
筆者も美しい文字を書こうと思ったことはないが、何故か不思議に美文字練習本は何冊も買って来て退屈しのぎに練習したりしているが、何の目的なのか自分でもわからない。
多分カルテを毎日書かなければならなかったり手紙や紹介状、診断書等文字を書くチャンスが多いので、自然に手が出るのであるが実のところカルテやメモの文字など我ながら読めたものではない。
メチャクチャ自分勝手な文字で「読めれば良い」と思って書いているが、自分のメモですら半分も解読できなかったりするくらい非道い文字を書くので、看護師さんやら事務スタッフの人々にとってはトンデモナイ悪筆の院長先生である筈だ。

世界中には文字を持たない民族が結構数多く存在しているらしく、日本列島の東北から北海道に居していたアイヌ民族とか、アラスカ北部のエスキモーとかアメリカのインディアンなども基本的に文字というものを持っていないらしい。

文明とか文化というくらいで文字というものはそれらの民族や人類に知識とか知恵とかを蓄積し活用することにとても便利で大切なものらしい。

唐の太宗という有名な「貞観の治」と称される素晴らしい治世を行った帝王の書、貞観政要(じょうがんせいよう)という書物は帝王学の教科書にもなっている。

この太宗という帝王は、また美文字を愛したらしく、世界一の美文字を書したとされる王義之(おうぎし)という人の書を自らの墓の中まで埋めさせたというくらい「文字」を愛したらしいので、文字というのは「言葉」を表す道具としてだけでなくどこかしら深い幽玄な表象や意趣で秘められている気がして、この今カリカリと白紙にすべらせている我が筆が紡ぎ出す文章というものを構成する文字というものへの重みが僅かながら増してくるようで何となく嬉しい心持ちになる。

小林秀雄という高名な文筆家の、いくらか難解ながら高尚な雰囲気の漂う文章を有難く読んでいると、「人間」の存在そのものよりもそのつくり出した文章や、その吐き出された言葉や、またその手の創造せる芸術や建造物や機械や論理や文化や、それらのさまざまの人間の創造物の方が人間そのものよりもはるかに存在感があり、永続性があり、不変性があり、普遍性もあるように思える。

こうして書きつづっているメモ風の文字(もんじ)や文章ですら筆者の手から離れて未来という時間を渡り、人間社会の空間へと飛翔するかも知れないくらいの可能性と力を秘めている一方で、筆者そのものは数年か数十年かの僅かな存在しか許されないという冷厳な現実の制限されているから誠に皮肉である。
文字というもの持っているか持っていないかという案外今の文明社会では軽視されがちな問題も少しだけ深考すれば、人生にとって極めて重大な差異を生じせしめているようで、あらゆる人に何かしらの文字を書いて欲しくなってくるし、パソコンとかワープロではなく手書きの文字として残して欲しいという欲求を持っているのは筆者だけであろうか。

筆者の父親の文字はカルテの残っていたが、かなり前に焼却されてしまっていた。
学生時代のノートは残っていたが、僅か一冊であったが誰に見せてもうなるような美文字であったように記憶している。
生前当時勤めていた看護師さんも明瞭に断言していたから確かにそうではあるのであろう。

文というのは文る(かざる)という字意もある。
つまりこの世の中の現象を文字にするということは必ずそこに「かざり」、もっと言うなら嘘が混じるもののようだ。
どうしても真実そのものではないということである。
であるから文明とか文化とか、さらに文字とか文章とかも世界の実相をまるで写真や絵画のようには伝えることができないということだ。

そのように考えると現代社会は映画やテレビという映像媒体と新聞や雑誌という文字媒体とで構成された、殆んど2種類の媒体しか持たないという或る意味でとても狭い窮屈なメッセージだけで世の中を知らしめられて満足している風があって、たとえば旅行に行って現地の匂いや触覚や何かしら目に見えない、説明の出来ないエネルギーみたいなものはどうしても現地現場に行ってしか感じとれないものであるが、当然ながら筆者も含めて知識人と呼ばれている人々程この罠にハマッているような気がする。
つまり、文字媒体と映像媒体だけで満足して、それがすべてであると勘違いをしているように思えるのだ。
このようにして考えていたら、逆にアイヌの人々とかインディアンかエスキモーの人々の方がはるかに人間らしく見えてくるから不思議である。

これらの文字を持たない民族という人々は、文明や文化の毒にさらされずに、逆説的に純粋な霊性心とか魂とかを保持し、信じ崇めているように思える。

所謂、文明人の弱点というのがここに潜在しているようだ。
科学というものをまるで宗教のように信仰している人々にも基本的にこの同じ姿勢があるように思える。
つまり、科学という文明文化の虜になっているのにそれで満足してしまっている事実だ。
文字の世界と非文字の世界、文明文化と非文明非文化の世界の両方を持っているのが優れた人間と言えるのではないだろうか。

ありがとうございました

濱田朋久


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