コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 自分という名の牢獄2008.10. 6

若くて健康で、カラダが元気に動かせるウチは良いが、何らかの病気やケガで不自由なカラダにでもなれば、その自らの肉体はまぎれもなく恐ろしい獄舎となる。
そのような状態にならなくても多くの人は、自分が「自分」というものの獄舎にいることに気づいていないように思える。

自分の考え
自分の感情
自分の欲望
自分の感覚

これら自分にまつわるすべてのエゴ(自我)の意識は本来持っている筈の自分の自由でのびのびとした「心」を縛っている。
人間というのは普通これらにとらわれて日々生きているかのようだ。
たとえば、「歯が痛い」とする。
それがひどい虫歯かなんかで、強烈な神経の疼きを生じさせる程の「痛み」であれば、その「歯」の持ち主である人間の意識はその「痛み」やその苦しみから逃れることだけに執着してしまう。
まさに歯痛という感覚に縛られてしまう。

またたとえば、「酒を飲みたい」とか「子供に会いたい」とか「恋人に会いたい」とか「クルマが欲しい」とか「家が欲しい」とかの欲望を強くいだいたとすると、これらの欲望のまたまた意識がとらわれて縛られてしまう。
筆者は若い時にこれらにずい分と苦しめられたので、若者はその野心とか欲望の強さ由にそれらに縛られている。

「悲しみ」とか「怒り」とか「恐れ」とかの感情に縛られることもある。
感情の場合には代替感情というものがあって、強い心の傷、トラウマみたいなものを経験した時には、本物の感情ではなくニセ物の感情、つまり代替感情が生じ、この場合には治療されない限りつづいていくことがあるが、このことについては長い説明を要するのでここでは割愛させていただく。
また「自分の考え方」にとらわれて苦しんでいる人もいる。
これは意外にもその考え方の持ち主である人間に少なからぬ深刻な影をもたらすことがある。

人生が全然思いどおりにならず、不運つづきであるにもかかわらず、他人や社会や生い立ちや遺伝や環境のせいにして、その人生の所有者である「自分の考え方」を調べ、疑い、点検し、あらためようとする人は少ない。
人生のマチガイの殆んどは運というものもあるけれども、その人の「考え方」のマチガイに起因していることが多い。
運という偶然の賜物であるかのような、自分の考えの及ばない不明瞭でおぼろげなものですら、その「考え方」を持っている人物の意識の集積の結果生じているものなのだ。

いずれにしてもこれらの「自分」の無意識的な「意識」、つまり自然的に発生したように思える感情、感覚、考え方、欲望というような人間のエゴというもののすべてに人間は縛られているというのが殆んどの人々の実相である。

これからの真の意味で自由でいる為には、まずそのカラクリに気づかなければならない。
つまり、第一に無意識的な意識に縛られていることに気づくことだ。
そうしてひとつひとつ意識を、自分をその無意識から解き放っていかなければならない。
そのようにしてから初めてその人間の本当の意志による意識的な人生を生きることができるが、人間の場合にはこれは口で言う程たやすくはない。

そもそも人間が人間として存在する為には親の養育と保護と、多くの社会を構成する大人たちを中心とする周囲の人々の教育とか洗脳のようなものを必ず受けるからだ。
そのような存在を「人間」と称するワケであるから、純粋な人としての意識というものがいかなるものであるかは、やはり「無」の状態に1回以上入らなければならないが、この「無の境地」に入ろうと意図する人はどちらかというと少数派である。

「無の境地」こそ自分という牢獄から自分を解放する手段であるが、それ以外では眠りと死しかない。
本当に意識された心の自由にはこの「無の境地」は必須なのではないだろうか。
この心の作業は付随的にあらゆる憂いや倦怠感ですらも取り払ってくれることがある。

このような感覚についてどうもピンと来ない人ならば、一度でも良いから「無」というものについて考えてみるだけでも良い。そこは決して空虚なものではなく、実はとても強大な静寂ながらもみずみずしくエネルギーに満ちあふれた境地でもあるのだ。

ありがとうございました

たくま癒やしの杜クリニック
濱田朋久


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