[戻る] |
■ 信じることについて | 2008.10. 3 |
人間関係において、その争いの原因の90%は相方で誤解であるそうである。 この誤解を解く作業というのも人によっては結構厄介である。 「自分は絶対正しい」と信じ切っている人にはどんな説明も説得も無意味となる。 どんな圧力も反撃の言訳となる。 ただ「スイマセン」とあやまるか、「あなたは正しい」と頭(こうべ)を垂れるしかない。 メディアで出てくる「失言」を集めた本を読んでみたところ、内容には少しもおかしいなと思うところは無く「正直」とか「真実」とかの感想を持ったので、要は受けとり方であると確信した次第である。 政治家の場合「本当のことを言うと」失言となるが、ほとんど失言にならなかったのが、先の元総理大臣のK氏である。 彼の人の場合、いまだに総理復活論を持っている人が多いらしく、一般大衆の次期宰相の人気がNo.1だそうであるから驚きである。 それでもこの方はいともアッサリと政治家を引退してしまったが・・・。 地方に住んでいると少しも生活は良くならず、店は白い紙を貼ったシャッターを降ろしたままの通りには店が並び、歩行者もまばらで失業者の数も多く、変ないささか奇矯とも思えるイデタチの若者が街を闊歩し、世の中が良くなったと思っている人は一人もいないのにもかかわらず、K氏待望論が未だにあるというのには全くオドロキという他ない。 余程政界というところには人材がいないか、一般の大衆の思考力がストップしているかのどちらかであろう。 先日はNHKのニュース番組で民営化後の郵便局の職員がインタビューに答えて「民営化したので政治的発言ができるようになった」とのことであるが、確かに公務員には政治活動は許されていないが、理由もなく首になったり減給されたりすることもなく、その身分はかなり保証されるので、この発言は一方的な見方を持った偏った発言である。 つまり、職員が政治的力を持ったということにならず、モチロン民営化で個人がハッピーになったことを表しているワケではないが、そのように思わせる報道の仕方であった。 政治かもマスコミ関係者も言ってはイケナイことがかなりあるらしく、本当のことを正直に発言すると普通は「失言」となるので、このような身分の高い人か有名な人というのはどうしても発言に慎重にならざるを得ないというより、殆んど沈黙している方が圧倒的に賢明であろう。 世の中はあらゆる分野で欺瞞に満ちあふれていてキチンと嘘をつかなければマトモに生きていくことができないのではないかと思えることがある。 「前言を翻す」という嘘など、もう嘘とは言えない。 それはただの「心変わり」であるけれど、女性の場合、男性との間に感覚のタイムラグ、つまり時間の感覚のズレがあり、「心変わり」を「嘘」と表現することが多いが、逆の見方をすると「心変わり」をキチンと表現できる「正直な男」と言えるかも知れない。 一番の卑怯な嘘は「見て見ぬフリ」という意味ではなく、知っているのに黙っているという嘘であるが、こういう嘘がつけないと企業社会では生きていけない。 先夜見たジョージ・クルーニー主演の「フィクサー(もみ消し屋)」という映画では、このことを見事に表しているが、報道機関が物事のカラクリをあからさまに、明々白々に人々に知らせることは滅多になく、そんなことをしたら殺される羽目になるかも知れず、実はとても物騒な世の中なのかも知れない。 マスコミでも触れてはイケナイタブーというのが山のようにあって、人々が知らせている真実の殆んどは捏造された真実、見せかけた嘘である。 「誰も信じられない」という人がいるが、この人が理性的にクールにそう思っているならば、それは正しい処世術であろう。 ただ感情的には「信じる」という心の動きは人生にとって極めて有益な心構えで、安心とかやすらぎとか人望とか徳とかを集め、その本人を幸福にすることが多い。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック 濱田朋久 |