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■ 疲労困憊 | 2008. 9.25 |
夏の疲れが出ているせいか、疲労感、倦怠感を訴える人が多い。 筆者自身も、今日多忙でヘトヘトであるが、こういう時にはどういう文章が出てくるかという好奇心もあって、少々無理をして筆を執っている。 疲労感というのと、疲労そのものには少し差異がある。 疲労を感じさせない薬物があって、それは所謂覚醒剤であろうと思われるが、コーヒーなどに含まれるカフェインにもその作用が少しある。 コカインというこれまた違法な薬物にもそのような作用があるらしい。 脳の中にもこれに似た作用の物質があって、ドーパミンとかエンドルフィンとかいくつかあるようだが、それよりも体内薬物と体外薬物というと当然ながら体内薬物の方がはるかにカラダには良いように一般的には思えるが、そうとは限らない。 たとえば、今この深夜の午前0時、泥のように疲れきったカラダでさえ一旦自宅の火事とか大地震とか台風とか爆弾とかの災害の時には、たちまちに疲労感などは一瞬にして消え失せ、神経も感覚も覚醒し研ぎ澄まされ、戦闘態勢が出来上がり、どちらかというと溌剌颯爽とした一種爽快な感覚を得ることができる。 恋愛中の男女にもこれが生じ、特に女性は肌ツヤはピカピカとして双眸は輝き、潤い、疲れを知らず快々としている。 環境の変化と心の対応で人間のカラダは極めて正直に反応するので、色々なその人間の状態を一瞬にして判断することができる。 実にこの「心の対応」、もっと言えばその人の感じ方で「カラダの反応」が、これまた変化するのであれば、心の持ち方というものの重要性がますます明瞭白々となっていく。 ストレスとは悪いものであるというのが一般の通説であるけれども、恋愛とか楽しい挑戦的な仕事とか、スポーツの勝負どころ、例えば野球であれば九回裏ツーアウト満塁の一打逆転のバッターボックスなどは、或る意味ストレス状態となる筈であるが、それを快と感じるか不快と感じるかは人それぞれであろう。 モチロン想像どおりそれを快と感じる人の方が仕事やスポーツや恋愛での勝者となりやすいと思えるが、これらの反応をどうしたら手に入れることができるかと言えば、やはり日々の鍛錬であろう。 緊張やストレスを快と感じる為のトレーニングについては、例えば上がり症の人でかしこまった席や大勢の前でのスピーチなど、ストレスそのものであろう。 心臓はドキドキし、肩や唇はこわばり、息はつまり、呼吸もままならない。 これを快と感じるのは到底できまいと思えるかも知れないが、実はカンタンにこれを快に変えることができる。 それは、ますます上がるような状態、緊張して呼吸ができない状態をそのスピーチの前に意識的につくってしまえば良く、一般に言われるように「リラックス」「リラックス」しようとするというのは殆んど逆効果である。 このような考えを一歩進めて、疲労困憊している時に少しだけ努力をして、この疲労困憊という不快の状態をさらに疲労させるような一連の行為をしていくと逆に疲労感が取れてくるようなきになるから不思議である。 ここ数日間に見た「プロフェッショナル」の一流の人々のDVDをつづけて見たところ、このような傾向、つまりストレスを快に変え、疲労困憊ですら積極的に楽しむという心構や態度に接する姿を見るとアタマが下がるなぁと感じると同時に、緊張やストレスに対してリラックスしようとか疲労に対して休養と怠業とか言うものが好ましくないケースというものが結構あるのではないかと思える。 特に若い人や子供や若さを保とうと意図する人にはこういう態度もひとつのアイデアとして面白い試みと思える。 ただし、あくまで自分の感覚とか体力レベルと相談しながら実行すべきで、極端な行動は避けるべきであろう。 最近「無理をしない」という本が出ている。 とても参考になるところもあり、実行もしているが、少しは無理もしないとカッコヨサも美しさも若々しさも成長も得られないのではないかとも思える。 「無理」という言葉にも少し無理があって、理屈に合わない潜在的な人間の可能性を潰してしまうようで怖いような気がする。 この「無理」という言葉はアタマの良い人の口から良く出て来る傾向があるが、夢も野心も希望も抱いて欲しい子供や若者の口からこの言葉が出てくると、いささか悲しい気持ちになる。 以前にも書いたが、日本人の美学「武士道」というものは「痩せ我慢」と「義」の為の「無理」だらけである。 このような「無理」を押し返すシリーズ映画の代表がシルベスタ・スタローンの「ロッキー」であり、ブルース・ウィリスの「ダイ・ハード」であり、ハリソン・フォードの「インディアナ・ジョーンズ」、山田洋治監督の「フーテンの寅」さんシリーズであるけれど、このような類の映画には数え上げたらキリがない程多く出会うので参考にされたらと思う。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック 濱田朋久 |