コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 謂わゆる専門職の人々の教養について2008. 9. 8

若い人々が、その経験もさることながら知識とか知恵とかのレベルで、年配者に劣るとは限らないということは案外認識されていない。
その理由のひとつとして、ごく普通の年配者の場合でも、日常の経験というものが、或る限られた領域に限定される傾向があり、また毎日知識とか知恵の蓄積の為に貪欲にそれらの吸収、学習に努めて来たという年配者が一般に少ないからであろうと想像される。

今はインターネットとかでどんな情報も殆んど瞬時にパーソナルコンピューターから適宜簡単に取り出すことができるので、情報を持っているということに重きを置かない傾向があると同時に、いつでもその情報源にアクセスできるので、その情報の持ち主や発信者に対して尊敬とか崇拝の念を抱かないのではないかとも考えられる。
昔から一般教養とか社会常識とかを軽んじる傾向を持つというのが若者の特徴としてあって、何故ならばそれらは自分の職業にとって有益で差別化された知識としての価値を低く見るという習慣がひとつの通念として現代の社会にあるのではないだろうか。

一例をあげるならば、筆者は「医師」という謂わば専門職としての国家資格を持っているが、この国家試験には一般教養とか哲学とか医療の倫理道徳についての知識レベルを問う試験問題などは遺憾ながら皆無であるので、医師国家試験というものも謂わゆる「専門バカ」製造制度と言えるかもしれない。
それらに対し、個人的な筆者のアイデアであるが、例えば臨床問題として日頃から「安楽死」を望んでいた終末期の患者さんや家族への対応はどのようにするかを問うものであるとか、現在社会の問題となっている臓器移植や再生医療や癌の告知の問題など、多少哲学的な深考を促すような質問や問題が出ても良いと思うのであるが、先述したように解答が「ひとつしかない」という問題でないと試験の点数をつけにくいし、判定の平等性という観点からも「試験問題」を作るのが非常に難しいという背景が考えられるけれども、一度でもいいから会えて挑戦してみても良いのではないかと思える。

何故ならば、医療というものが人間の生命とか尊厳とかに必然的に関わっていく働きかけであるので、そのような問題への考え方とか心構えくらいは試験問題に出しても良いのではないかと時々考えている。

ギリシャ時代の医聖と称された「ヒポクラテスの誓い」というものがあって、殆んどの医者はこの内容について知っている筈であるが、現代人にとっての戦前の教育勅語のようにその内容について知悉(ちしつ)している人はあまりいないように思える。

医者の世界でもそうであるから、例えば専門職と呼ばれる弁護士とか会計士とか、キャリアの官僚とかも含めてエリートという範疇に属する人々の多くが、現代の教養主義への軽視と経済至上主義傾向の影響がその使命感とか存在意義とかにあまり思いを至さず、単なる生活の糧を得るための手段というものになり下がっているように感じられる。

本当のところはそれらの人々も、時々そのような考えや理想や理念に思いをいたすこともあるのであろうけれども日常の大切な細かい業務に追われてしまって、本質を見失っているかのように思われる。
これは教育者にも言えることであるが、或る種の使命感みたいなもので、どんな職業にも必要ではないかと考えられるが、その必要性のひとつには「やりがい」の問題と「モチベーション」の問題と、自分の職業の存在意義と本質についてはいつも念頭に置いておいた方がその仕事もただ漫然と作業するよりはるかに楽しかろうと思えるのであろうが、いかがであろうか?

筆者の父親が生前「教養」というものは、自分の存在を客観的に外から眺めるのに必要な知識であり、常にそれを養っておかなければ自分が何をやっているか分からなくなってついには大きな判断ミスを犯すということが起こり得ると常に口走っていた。

以前、筆者の大学の後輩で心優しき産婦人科の医者がいたが、この男は家族の強力な安楽死への依頼があり、その終末期の病苦と痛みに煩悶し苦悩する患者本人へ「安楽死」を施用したが、意に反して家族やマスコミからさんざん吊るし上げられ、医師としての業務についても一定期間停止を命じられたが、その背景や情状を斟酌されて医師免許の剥奪は免れたようだ。

またそれとは逆に、痛みに苦しみ悪性の病気の末期の患者さんに生命を永びかせる為だけに、その麻薬性鎮痛剤の使用を制限したりして患者の苦痛に対して対処しなかったり、また自らの研究の為に患者さんにとっては全く必要のない診断の為の検査を定期的に行いつづけて無用の苦痛を味あわせる有名ドクターもいたりして、いずれも事の本質を考慮せずに、その事柄に対してやや無機質な処置や対応をする例もあったりして、いずれも医療に対する医者の側の考え方や心の姿勢を問われるケースがいくらでもあるようだ。

そのような問題に対考になるような医師国家試験問題は殆んどないが、看護師の資格試験にはそういう心構えのようなものに対する質問があったりする。
医師の試験については、人間的にも人格的にも優れていて正しき人であるという前提があって法律ができているが、こと保険診療については、謂わゆる性悪説、つまり医者は金儲け主義者でいつでも不正請求や、不当の金儲けを狙った無用で高価な治療や施術をする悪人にいつでもなりうるという可能性があるとして制度の運用がなされている。

人間が人間の治療をすて、司法関係者のように人間が人間を裁くというような人間の生命や苦痛や困窮を扱う職業の人々には高邁な理想や倫理感というものを是非とも身につけておく必要があると思えるのだけれども、いずれも実際はそうでも無いらしく、ただの俗物としか表現できないような人物もこれらの高尚な教養も知性も修めた立派な人であるという傾向が強くあるということは今のところ無さそうである。

ありがとうございました

たくま癒やしの杜クリニック
濱田朋久


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