コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 愁いの頃 2008. 8.29

秋になった。
まだ8月の下旬であるが、朝夕には秋風とおぼしくすずやかな風がどこからともなく吹いてくる。
秋の下に心と書いて愁いと読む。
秋の心は憂鬱なのだろうか。
恋人同士なら、その間に秋風でも通れば終わりが近い。
秋と「倦き」をひっかけたワケではなく、秋には色々なことが終わり、色々なことが始まる。
英語で秋はAutumnであるが、Fallとも表現する。
つまり「落ちる」だ。
何が落ちるかというとエネルギーだ。
何らかの精神的エネルギーが光の減少、即ち日照時間の短縮と気温の低下で生じる。
夏の間にたまった疲労の蓄積による生気の落下もあるかも知れない。
いずれにしても秋は少し憂鬱で寂しい。
人気の無くなった海や山の行楽地には尚一層の秋の兆しをまざまざと見る事ができる。
子供達はさらに憂鬱だ。
楽しい夏休みは終わり、宿題を片付けねばならず、大学生達には早々に試験があるかも知れない。
普通の人々にとって8月の下旬というと日曜日の夕方のような気分ではないだろうか。
今や日曜日の夕方には笑点という恐ろしく長寿の番組と、これまた恐ろしく長生きのサザエさんという番組もあるが、これを見ると落ち込むという人もいるが、いつの頃からか筆者の場合これはなくなった。
そもそもテレビを見ないし、日曜日ももともと好きではない。
それでも8月下旬は少し寂しいのは何故なのであろうか。
初夏というのが一番ワクワクする季節だ。
「夏休みの計画」という明るい未来があるからだが、今年は海にも山にも旅行にも行かず、夏休みの思い出と言ったら中学生の三番目の息子と熊本市内をブラついたくらいだけれども、こんなに思い出深い心に残る夏休みの出来事はない。
このことを思うと秋の愁いが少しだけ消失するような気がする。
子供は有難い。
それが明るいか暗いか不明であるけれど「未来」ではある。
自らの少年時代にあった未来への不安とおぼろげな希望とを重ね合わせると、自分の子供に伝えたいことのひとつは何も恐れることはない。
しかし努力はしろ。
全く報われない努力と言うものは人生に決して無いというのが筆者の確信である。
人生においては、努力を怠った後悔程激しいものはないと思える。
それがたとえ強制されたものであっても、自らの意思でなかったとしても「報酬」というのは必ず何らかのカタチでおとずれるものなのだ。
今年はオリンピックだった。
何の努力も工夫も忍耐もせずに栄冠を勝ち得た者など絶無の筈なのだ。
そのメダルを得る為の努力と精進の大きさに人々は感動するのだ。
愁いの頃という表題にそぐわない結論に思うかも知れないけれど、愁いとか憂鬱というものは何かまちがった考えや幻想によって生じるもので、それは郷愁とか懐旧とか過去に心が向かった時に生じる何らかの喪失感であろうと思える。
その喪失したのは自らの人生の時間であり、実際に生き別れた人であり、死別した人であり、青春であり、恋人であり、若さであり、夏の思い出であるのであるから、一気に未来の希望に意識を向けるか未来も過去も忘れて今ここに生きるか選択すれば良いのではないかと考えている。
愁いたい人はしっかり愁えば良し、憂いの苦痛のある人は今ここか明るい未来の創出する努力をすれば良い。
それかとても得られそうになければ力を抜いてバカになってニッコリ微笑えば良い。
外見だけでもノーテンキなカタチをつくるだけで結構楽になるかも知れない。

ありがとうございました

たくま癒やしの杜クリニック
濱田朋久


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