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■ 少年 | 2008. 8.25 |
今日は、たまたま何の因果か、我が中学1年の愚息と熊本市の繁華街を散策することになり、郊外の仕事場から自家用車の鼻先をお盆休みで少し混雑の緩んだ中心街に向けた。 アーケードに覆われた明るい広い通りを、ただ無目的にリュックサックをしょった中学生の少年とショルダーバッグのオヤジが二人仲良く「街ブラ」をしたワケであるが、二人共殆ど何の強く興味を惹かれるものもなく、欲しいものもなく、自動的に特に楽しいと心持ちにもならず、最終的には「本屋に行こう」ということになり、中学生の彼はトレーシングペーパーなる半透明の480円の紙を自らのお金で買い求め、父親である筆者は800円の新刊の文庫本を買ってそのまま屋根つきの駐車場に停めた涼しい乗用車に乗り込み、殆ど無言で音楽を聞きながらふるさとのある山あいの盆地の小さな町に帰って来てしまった。 ヤレヤレ。 いずれにしても筆者にとっては四番目の末子の少年と久々に二人きりで過ごせたことは今夏最大のエポックかも知れない。 平成15年8月15日。 お盆休みの最終日の、あつさも少し峠を過ぎた晩夏の昼下がりであった。 少年というのは奇妙なものである。 脳の発達は殆ど終わっている。 体は未成熟であるけれど、心にはもう人生の大部分の脚本を書き込まれてしまっている。 謂わば、小さな大人である。 人生については何もかも理解しているようでもあり、何も知らない無知で愚かで人生経験の極めて貧弱な人間である。 教育というものの重要性と価値についてはどのようにして理解させれば良いのであろうか・・・と時々考える。 一流大学を出て立派な仕事に就いて殺人までするような人間もいるから教育がすべてではないが、父親として何を伝えるべきか正直なところ途方に暮れてしまった。 ただ、ほんのささやかな夏の日の午後の静かなやりとりの中にお互いを認め合っている、信じあっている、愛し合っているということだけは伝わったような気がする。 これは思い込みかも知れないが、自分の心の奥底深くに物言わぬけれども確固とした石像のように静沈している。 理由を明確には書き切れないが、奇妙に心嬉しい半日ではあった。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック 濱田朋久 |