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■ それぞれの世界 | 2008. 8.24 |
人と話しをしていて最近思うのは、人というのはそれぞれ別の世界に住んでいて、滅多に混じり合うことはないのではないかという疑念への確信についてである。 何となく人々は、或るひとつの想念というかイメージについてそれとなく主としてメディアからとか世間から誘導されていて「真実の世界」を創り上げられているように思えるけれども、本当のところそれぞれの個人の心の奥底にある世界観というのは極めて独創的でユニークで孤立していて全く「それぞれ」ではないかと思うようになった。 そのことに対して別に違和感は無いけれども、そういう風に考えてくると例えば普通の人間にとっては「孤独」というものが本態であって「愛」というものが虚態であるようにも思える。 一時的な心の違いによって孤独な人間が愛の世界に入ることはあるにしても、心理的に見れば孤独な世界に居る方が安全であるように思えるので多くの臆病な人間にとっては愛の世界とはオソロシイものと言えるかも知れない。 長い話し合いをしても、殆ど心を通じ合わない相手もいればチョットした目くばせとかうなづきとかあいづちだけでも心が通じ合う相手もいてホントウに人間の相性というのがオモシロイと思えるけれども、この相性の問題については呆れるほど、またコミュニケーションの限界について楽天的な思想を持っている人々にとっては暗然とさせられるくらいに法則どおりなので残念であるが、ほぼ完璧に「星どおり」にお互いの理解度が決まってくる。 そういう星の相性が合う場合、孤独感は感じずに済むこともあるが、それが家族の場合にはとても悲惨であることも多い。 子供にとっては親は、謂わば絶対者であるので子供の心にどうしても寄り添うことのできない人間が両親である場合には、その子供の孤独感たるや想像を絶する程で、それを救ってくれるのが発展途上国の場合それは貧しいが由に生じたであろう生活共同体であり、激しい肉体労働であるが、先進国の場合には意外にもそれは学校である。 家庭でも学校でも共感とか共鳴とか何らかの「通じ合い」を得られない子供は死んでしまうか「孤独」を好きになるしかないが、この「孤独を好きになる」というのは普通の感性の人々にとっては結構難しいようだ。 この孤独地獄からの脱出には霊性心とか何らかの霊的行動がかなり有効であるが、習慣的にこれを持たない人々は多くこの孤独感に激しく苦しめられるようだ。 世界から切り離されたような壮絶な孤独感であるので、自死を持ってしかその苦しみから逃れられないという人々もいて何とも痛ましいが何とか「自分の生きる道」を発見して生き長えている人もいるけれども、その方法はいかなるものかと考えてみるにそれは正邪善悪を問わず「自分なりの世界観の構築」ではないかと思える。 自分は人々とは違うけれども、世界に何とか適応できるような自分なりのごく個人的な世界観を持っており、それか他者とは少し異なるかも知れないが何とかかんとか自分を含めた世界(他者全体)と自分の内奥の心の世界とが折り合いをつけられるものであり、もっと具体的には自己完結的に「全き一人で全体である」というような世界観ではないかと筆者は考えている。 釈尊の言う「天上天下唯我独尊」というような世界観かも知れない「我こそは天地大宇宙の盟主である」というような自己世界は他者に対して何の影響も与えなければ或る種かなりの健康的な精神状態を生じさせると思える。 ありのままの常態で自他の一体感を伴うとても健全な世界観とも思える。 個人はそれぞれの世界観を持つべきである。 しかしその世界観を他者と無理に共有しようとしないことが大切だ。 それは時々一致すれば良く、もしかして一意しなくても良い。 特に家族や夫婦間ではこの原理は適応させるべきと思う。 このそれぞれの世界観を一致させようとする試みとかはからいほど無駄な争いや多くの余計な厄災を生み出すものは無いと思える。 人々の考えはそれぞれ違っていても良いのである。 ただし前提はある。 それはお互いにその違いを認め合うということであり、さらにその所属している共同体の世界観は理解しておく必要があり、折り合いをつける努力は最小限でもしなければならない。 生きていく為に・・・。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック 濱田朋久 |