コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 癌の告知について2008. 8.22

このことで今日怒り心頭に発したという友人の話を聞いて筆を執っている。
しばらく告知をするべきか、せざるべきかとの議論があったが、それが少し二者択一的な考え方に基づくものならば少々問題であり、正しい解答は「ケースバイケース」というものではないだろうか。
最近では週刊誌などの一般雑誌の特集などでも「告知して欲しい」
という人が増えて来たように感じる方が多いと思うが、これは実のところそういう傾向が著しいというワケではない。
今や3人に1人は癌死する時代となったが、「アナタは○○癌で余命数ヶ月とか数年ですヨ」とか簡単に告知しようとする人々、もしくはして欲しいと思っている人々がいるが、これは全く配慮のない患者さんの気持ちを無視した健康人の人々の考え方と感覚である。
年令性別を問わず、そのような告知をされて平気でいられる人など当然ながら殆どいない。
特に「オレはいつ死んでも良い」とか「悟りを開いたから自分は大丈夫である」なんて普段から言っている人ほど一般の想像に反して端から可愛そうなくらい落ち込んでしまって、中には本当に死期を早めてしまう人などいて、今のところ告知なんてロクなことはないと思えばそのような状況になって家族や友人達とのドラマチックなやりとりなど映画やドラマの少しヤラセの入ったドキュメント番組くらいのもので、真実の心情など気の毒で涙が出るほどだ。
それもまだまだ若く生命力の盛んな年令に卒然と降って湧いたような不治の病の宣告など嫌らしくて仕方がないであろう。
どちらかというと軽微な告知ほど悩ましい様子が深刻に見えるのはやはりその生命力の強さの為で、もともと「死にたい」などと日頃から口走っているような弱々しい人々の場合、従容としてそれを受け入れるケースもあるが、やはりこのような人を基準にしてはイケナイような気がする。

ホスピスという施設があって、告知を受けた人が死を安らかに迎えましょうという考え方であるが、これは以前も述べたように多分にキリスト教的な思想に基づいた医療(?)で本当には日本の社会には根づいてないように思える。
キリスト教徒の人々にとっても死は恐ろしいものと思えるが、明確明瞭に死は神に召される必然の出来事で天国に、言い換えるならばパラダイスに行けるワケであるから「死を待つ人々」のとってはヒタヒタと寄せてくる満潮の海辺の水のように死というものは自然に受けとれるのかも知れないけれど、結婚式と葬式以外には殆ど無宗教であって、葬式の時ですら多くの人々のその無頓着さ、日常性を思えば「今そこにある死」であっても「今そこにある癌」であっても所詮他人事(ヒトゴト)なのであろう。

多くの無神経で鈍感で荒々しい感性の持ち主達は平然と「アンタ癌じゃないの」なんてのたまわったりする。

そのようなレベルの感性が巷やメディアで醸成されて簡単な「告知」を医者も淡々とやってのけるのかも知れない。

今は医療関係者も説明責任、いわゆるインフォームドコンセントという唐言葉もあったりして、訴えられたりするのも嫌なので面倒臭い嘘はつきたくないし、正直に病状を説明するのであろうけれど、筆者も医者の端くれであるからそのような医者の心理を理解できないワケではないけれど、あまり配慮がないのもいかがなものか・・・と思える。

医者の心情としては患者さんの心への配慮はあるもののキチンと説明しておかないと義務を怠ったような気分になるし「言った」「言わなかった」で揉めるとすれば「言わなかった」方が明らかに不利であるし、告知しないということは生涯をその患者さんに嘘をつきとおすワケであるからその心理的負担を軽くする為にも「言っちゃった」方がはるかに心理的には楽である。
だいいち嘘をつくというのは面倒くさいし、その家族に対して色々とその配慮とか考え方とかを聞かなければならず、面倒臭いこと誠にはなはだしい。

筆者の場合はこの面倒臭い作業をいとう気持ちはほとんどなく「心のケア」というものに重きを置いて対処しているつもりであるので、今のところこの「告知」というものには極めて敏感であり慎重である。

つくづく思うのは時代が変わっても人間の死への恐怖、病気への恐れというものは実のところチットモ変化していないように思う。
それらを解決できる程人生は長くないし、何せ「普通の人々」というのはそんなことなど考えもせずに常日頃はどうでも良いような種々の活動に明け暮れていて筆者ですらこんなえらそうなコラムを書きながらも全く一般の人々と同様にとても愚かで日常の少しの些事でも心は千々に乱れ、やたらに右往左往して少しも覚悟というもののない浮き草のような生活を送っている・・・ように思える。

であるからこそ癌の告知など簡単にできないし、またそういうものをされたくはない。
「人生というのは死と隣り合わせ」であるというのは理屈では解っていても、まるで永遠に生きていけるのではないかと思い違うようにあくせくと働き、お金やら名望やらどうでも良いようなコレクションやらを貯め込んでいる愚者中の愚者なのかも知れないけれど、こと「告知問題」については一言申し置きたくて筆を執った次第である。

個人的にはやはり避けては通れないけれど、人生にとって嫌なことはできるだけ軽くあっさりとやり過ごしたいというのが筆者の心秘かな根胆である。

お疲れ様でした

たくま癒やしの杜クリニック
濱田朋久


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