コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 終戦記念日2008. 8.21

昭和20年8月15日は、天皇陛下の玉音放送(敗戦を国民に告げる放送)があり、第2次世界大戦の実質的歴史的終結の記念日となっている。
何故かお盆の末日にもあたっていて不思議である。
今年は平成20年であるから昭和を平成と置き変えると興味深いといういうのは、昭和20年も平成20年も星まわりで言うと一白水星に当たり、計算がしやすい。

先日の8月8日は娘の誕生日であったので、18才のバースデーを二人で久々の夕食のパスタと本屋で過ごした。
娘も何の因果か結構な読書家で、父親と同じように全くテレビを見ない筆者の父親も「昭和」2年生まれで、一白水星の年に生まれているから丁度娘の年、つまり18才で終戦を迎えたことになる。
当時はまだ陸軍士官学校の生徒であったから、今なら殆ど少年である。
さらに余談であるが、父親の生年は昭和2年10月28日であるので、一白水星か九紫火星か微妙であるが、その感情の激しやすさと幼少期から中年期までの短い、僅か50年の一生を俯瞰するとやはり九紫火星であろうと思われる。

話を戻すが、お盆と終戦記念日が同日と言うのは少し不謹慎な表現になるが結構便利である。
お盆に先祖の霊が家に帰ってくるというのと、戦争の犠牲になった人々、特に国外で国の為にと戦った英霊の帰国という風に思うと、何かしらとてもおごそかな心持ちになる。

筆者の父親というのはその出自からして養子とは言え神官の長子長男であり、士官学校入学という経歴もあったりして殆ど全く軍国人間である。
教育法もどこかしこが軍隊式であり、特別な納得できる理由もなく鉄拳が飛んで来るので、今でも男女を問わず人の手がアタマから上に上がると自然に防衛のための手の挙上と頭を傾けて「よける」動作が無意識的に起こり、それを或る友人から50代になってから初めて指摘されて我ながら驚いたものである。
「ピシャッとせろ」とか「髪を切れ」とか「要領が悪い」とか「動作が鈍い」とか「音を立てて歩くな」とか、モチロン「成績が悪い」とか色々難癖をつけて殴られるので、男というものはもともと暴力的であるという風に胆の底に染みついてしまったお陰で、少しくらいの暴力沙汰には馴れているが、もともとは暴力というのが一番嫌いな性(たち)であるので、余程の事がない限り最近はボクシングとかプロレスとか空手とか柔道とか何となく暴力的なスポーツはあまり好きではない。
ただし自らの人間としての心の奥底にある暴力性というものの存在まで否定しているワケではないので、いつどこでその暴力への衝動が突き上がってくるのかいつも警戒している。

話しはドンドンそれていくが、戦争というものは実は人間という生き物はみんな大好きなのではないだろうか。
梅原猛氏の説にもあるように、人間の暴力への志向性は映画やドラマやスポーツや家庭内での日常の所作に如実に表出されていて、最近子殺し、親殺し、夫殺し、妻殺しなど近親間での殺し合いまでマスコミで報道されているけれども、もともと同種同類を殺すという性向は猿と人間だけであるそうな。
特に猿の場合、ボスざるの死後新しいボス猿に仕えることになるメス猿は「先夫」の小猿たちを殺すという性質があるらしいが、これなども人間にあてはめても全く同じようなことが起こっていて、家庭内の暴力、いわゆるドメスティックバイオレンスなどを詳細に調べてみると、愛と暴力との深い深い関係性がうかがわれて興味深い。
極言するならば愛と暴力には切っても切れない関係にあり、愛と憎悪との関係性についても同様のことが言える。
いわゆる快楽殺人なども性愛的な暴力の果ての行動であるので人間の業(カルマ)の深さ、即ち同じことを何回も繰り返すと言う習性は歴史の本などを紐解けば恐ろしいくらいパターン化された人間の心の暴力思考的な構図が見えてくる。
それは一言で述べるなら「愛と恐れ」の均衡の乱れであり、愛が恐れを生み、恐れは愛から生じていて恐れの本質というのは愛(自己と他者の両方に対するもの)の喪失への恐れが主であり、逆説的には愛の対極としても究極のどれも愛の感情のカタチとして恐れがあるようにも思える。
それらが入り混じって強い憎悪や怒りや悲しみなどのネガティブな感情も湧いてくると同時に、喜びとか快楽とかの感情や感覚なども生まれてくる。
これらは図式にすると解りやすいが文章にすると難しい。
愛→恐れ→怒り→悲しみ→喜び→欲望、この順逆もあるが、これらが直列的にも並列的にも循環しているのが人間の心であり、これらの複雑な感情の動きや欲望や理性、主におだやかな冷淡でない理性をもって愛というものを中心に据えながらバランス良くコントロールできる人間を成熟した立派な人間と呼ぶこともできると思うが、これは筆者のただの仮説である。

お盆の初日に話しの展開が奇妙に変化してしまった。
こういう人間の心の中をおだやかに平らかに保ちましょうということで平成(内平らかで外成る)という元号が明治生まれの東洋思想の碩学、安岡正篤氏の考案として生まれたらしい。
つまり、国も人間も心が平らかであれば外、即ち外国と外見も人間関係も国際関係も事が成るという意味だそうである。
昭和というのは激動の時代であったが、昭という文字には明るく照らすという字意と共にやぶるとか切るとかの意味もあって事件とか事故とか兆しも見える字だそうであるし、実は字画も17画と平成の11画とくらべても凶画となっている。
日本も昭和20年以来殆ど生き平和を60数年間も謳歌しているが、お盆に流されるテレビ番組などを見ると相変わらずお笑いとバラエティーとクイズ番組で、完全な平和そのものの様相であるが、それはそれで慶ばしいことなのかも知れない。
人々が何の憂いも失くしてしまうのは或る意味とても満ち足りた平和なひとときを味わっている証かもしれないからだ。

ありがとうございました

たくま癒やしの杜クリニック
濱田朋久


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