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■ 顔 | 2008. 8.10 |
或る雑誌を見ていたら、「この人は殺人犯人」かと思しき人物の白黒写真があったので、その下の記事を読んだところ、Hという名の元法務大臣であった。 色々聞いて見ると死刑執行のハンコをドンドンついた人だそうであるから或る意味殺人者と呼べないこともない。 筆者は死刑廃止論者でもなく、もちろんその推進者でもないけれども、死刑の執行の是非については色々と持論もあるが少なくとも「人殺し」にはなりたくないので、死刑執行人から死刑を求刑する検事とか死刑の判決を下す裁判長とか、その最終実行決断者である法務大臣とかにはなりたくないなぁとつくづく思う。 我ながら臆病で卑怯で優柔不断な男である。 カッコヨク言うとモラトリアム(執行猶予)人間、悪く言うと日和見主義でいい加減な人間と言える。 本題に戻すが、人間の顔というものはその持ち主の人間性をまざまざと表出する看板の部分であるので、余程注意して日頃の思考の内容や感情の持ち方、その欲望の方向性についてはよくよく慎重に吟味し、選択し制御しておかなければそれこそ「顔に出して」しまうようだ。 他者の評価に耐え得る顔を持っている為には常に忍耐心とか勉強とか努力とかを怠らないようにしなければならないと思える。 最近見た有名人の顔で驚いたのは、プロテニスでカムバックした伊達公子である。 一時引退していた頃には、もともと美しい顔の女性であったけれど現役時代よりもおだやかで柔和な顔になられたようであるが、現役で大活躍していた頃の研ぎ澄まされた陰影の濃い強烈に人を魅きつけるプロの表情ではなくなって、どこにでもいる「普通のお姉さん」の顔になっていた。 サッカーでもかつて大スターであった中田英寿という人の顔も、今でもよく雑誌のグラビアに載ってくるが、これまた現役時代のあのケモノのように鋭い眼光とか、激しい闘志を秘めた顎や固い意志を感じさせる口元は消え失せて、やはりただの日本人のお兄ちゃんの顔になってしまっていた。 当然と言えば当然であるが、今の多くの日本人の若者の普通の顔であるどちらかというと緩んだ顔である。 個人的にはどちらが好みかと言えば、やはり現役時代の顔である。 筆者も未だにとりあえず現役の職業人であるので、自分がどんな顔をしているかよく判定はできない。 このコラムのお伝えしたいこと、要旨は「全部顔に出ますヨ」ということでどんなに著名人であろうと市井の雑踏に埋もれた一般人であろうと、その顔には美醜を問わず殆ど善なるものか悪なるものか、正しきものか邪(よこしま)なるものかは表出を免れないので、顔を良くしておこうとする人なら良く心してその心の内を善なるものにしておかなければならず、その為には善なる言葉を持っていなければならない・・・と考えている。 その善なる言葉というのは、誠にシンプルで短いもので、それは「ありがとう」であり「感謝します」であり「しあわせ〜」であり「たのしい」であり「おかげさまで」であり、これらの実に単純で平凡で極めて身近な言葉の減少からすべての不幸が始まっているような気がする。 先程までついつい読んでしまった月間雑誌の胸の悪くなるようなまがまがしい実録犯罪ドキュメントを読んでの感想がこれらの結論へとつながっている。 その犯罪にかかわった、いわゆる美人医者とかエリート役員とかの美しく整った顔の写真を眺めながら気づいたことであるが、それは目線が入っている為にさらに明らかになったもので、「口がへの字」が加害者で、「口角が上がっている」のが善良な被害者というものである。 ということは、多くの犯罪者というのは口角の下がってしまった緩んだ顔であるか、もしくは不平不満たらたらの他罰的人間ではないかという推論をさせるものではある。 少し考えてみれば至極当然のような気もする。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック 濱田朋久 |