コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 逆恨みの理論2008. 8. 2

「忘恩は畜生の始まり」という言葉があるが、「恩を仇で返す」なんていうのは世の中にゴマンとあるようだ。
佐木隆三の殺人百科というノンフィクションの中でも、極貧親子を暖かい同情心から家に入れて親切に面倒を見てやった男が、その世話になった家族を皆殺しにした事件とか、最近では親殺しなんて家族内での謂わば恩人とも言える人に対する殺人も時々報道されたりして「何でなんだろ?」と首をかしげたくなるが、実は意外にもその忘恩の行動の心理的背景には人間の虚栄心とかプライドとかさまざまな心理的メカニズムが潜んでいて、考えてみれば結構単純な理屈があるように思えるのでそのことについて書いてみたい。
松本清張の名作「砂の器」は、人間の「逆恨みの理屈」をよく物語っている。
これは何回も映画化されているが、それほど面白いのだろうけれどその心理的な物悲しさ、人間の持っている業の深さとか虚栄とか過去の生い立ちへの激しい嫌悪などが見られて、人生というもの・幼少期のトラウマとか怨念とかを考えさせる物語となっている。
そのいかにも憐れで惨めで貧しげな親子に対して行われた人間の純粋で善良な親切心とそれに基づいた行動がこの悲劇的でおどろおどろしい物語の発端となっている。

物語をかいつまんで書いておくと、ライ病の親とその子の貧しい暮らしぶりに同情した親切な警察官が何くれとなくその親子の面倒をみるのであるが、その親が死んだ後その子供は、その過去を消し去って有名な音楽家となり、華々しい成功と女性の愛を勝ち取るのであるが、その過去を知る件の老いた警察官の男が純粋な懐かしさからその立派になった青年に会いたいと申し入れたところ、その青年に殺されしまうという殺人事件がこのミステリー仕立ての物語の中心をなす出来事となっている。

何も殺すことはないだろうと普通は思うのだけれども、忌まわしい過去というものは葬り去りたいものだし、出生の秘密などという秘中の秘など決して「知ってるぞ」などと公言したり表明したりするべきではないが、それ以上に知られたくない過去を知っている男など、いくら親切心があろうとも憎悪の対象以外の何者でもないであろうと想像される。

人間はどんな人にも知られたくない過去とかあるし、もともと自尊心というのがあって普通の人間は同情されるというのは結構嫌なものなのである。
特にプライドの高い人はそうであるようだ。
その有難い親切心も同情心と勘違いされて、その親切を受けた当人の自尊心やプライドは著しく傷つけられるかも知れないことは憐れみとか同情を無条件に良きモノとする。
言うならばとても無邪気で素朴な人には理解できないことがあるのだ。
つまり親切を受けた人にはその恩を正当価値として返せなかった場合、「得をした」と考える人もいるが、逆にプライドを傷つけられたと内心では思っていることが往々にしてあるものであるような気がする。

そういう理由もあって、親切と人の世話とか面倒を見るという時にはこのあたりの自尊心への配慮について慎重に注意深く対応しなければ、時間の経過と共に「世話になった当時の思い」などスッカリ忘れてしまって「傷つけられた自尊心」だけが残ってしまい、その恥と憐れみの混じりあった惨めで深い残酷な復讐心へも変わり得る可能性のある不気味で危険な感情や衝動の動きについて充分警戒しておくべきかも知れない。

恩は借金と同じように返してもらったほうがお互いの為に安全である。
お互いに上下関係も肩身の狭い思いもしたくない、イーブンで対等な立場に立つ為に・・・。
「善良さ」「親切心」「同情心」という人間の本来持っているべき美しい心も、想像もしなかった「逆恨み」という「感謝」とはまるで真逆の誠に理不尽な仕打ちを覚悟しておかなければならず、逆に恩を決して忘れない人というのはやや少数派であるが、どちらかというと社会的にも経済的にも成功者と呼ばれる人が多いような気がする。
また恩を返している人であっても、過去にもらった恩より今現在返している恩の方が上回っていると感じている人は逆恨みの人へと移行する可能性があり、基本的には忘れっぽいというより、もともと被害者意識が強く悪い出来事は他人や周囲のせいにする他罰的な人が多く先述したように実際に犯罪者になってしまうことも多い。
用心したいものだ。

人間の生きる道は感謝感謝で生きるているというのが、正しい道。楽しい道、美しい道と言えるのではないだろうか。

ありがとうございました

たくま癒やしの杜クリニック
濱田朋久


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