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■ 露骨と上品の関係について | 2008. 7.24 |
自分が、水戸黄門とか遠山の金さんとか桃太郎侍とか昔からある時代劇のようにある種パターン化されたキレイゴトをどうも好んでいるのではないかという疑問をフット抱いて、急に筆を取って書いている。 今日は娘の学園祭ということで、久々に一人娘に会ったが、彼女と共通の趣味は読書である。 それも「赤毛のアン」という謂わば児童書に分類される本がお互いの愛読書で、彼女の場合そのお互いの愛読書で彼女の場合、その物語の読書感想文が何かの選に入選したとかで面白いなぁと思ったのは、別に「赤毛のアン」を読みなさいとか読書をしなさいと示唆したワケでもないのに親娘にしていつも読書三昧で、それも愛読書が同じであることについての不思議な一致についての驚きである。 その「赤毛のアン」であるが、やや現実逃避的とも言える夢想家の孤児の少女が主人公の物語であるが、その「夢想の力」によって、現実の自分にとって好もしくない状況を自分なりに心理的に処理をしていくところが、娘と私の共通な心理的作業の特質としてあると思える。 それは、両親が不仲に見えるということ、中学生から5年間寮生活ということ。 これらは「心の現実」としては子供としたら相当な不安であろうと思える。 それは彼女の摂食障害という精神的「病い」の原因にもなりうる重大な心理的問題も含んでいるのであるけれど、その「痛み」に対処する手段として「読書」という趣味に飛び込み、或る意味その心の痛みを鎮痛させていると思えて、少し痛ましいなぁと思うのであるが、この心理的作業は筆者の心の中にも同様に存在していて、時々自分自身を慰めていると同時に苦しめてもいる。 さて、表題の露骨さであるが、これは或る意味で非文学的な最たるものではないだろうか。 さらに上品でない人間の在り方の特徴的表現形式ではないだろうかと筆者は考えたワケである。 文学イコール上品とは言えないとは思うけれども、少なくとも日本の古典文学の源氏物語や万葉集や古今集やその他○○日記などあらゆるものが素直で素朴な表現をしているかもしれないけれど、それらは露骨でも剥き出しでも下品でもなく、秘めやかでつつましやかで恥ずかしげで全体として色めいていて上品であるという風に思える。 最近の映画やテレビやアダルトのモノは、この露骨さがドンドンエスカレートしていてとどまることを知らず、人間の欲望が光々とした蛍光灯に照らされたテーブルの上の汚物のようにあからさまな過ぎて少々下品になっているように思うのである。 形式とか伝統とか世間体とか格式とか身分とかそのような現代の社会は否定されてきつつあるひとつの生活様式も人間の実態の欲望の丸出しや感情の表現の露骨さを抑制して社会の秩序を保つとか、人間の生活の「様式美」を保つ為に少なからず必要なものなのではないだろうかと考えるのである。 筆者も年令を重ねたせいか世の中をそのように眺めるようになってしまった。 それは表現を変えれば保守的になったとも言えるし、露骨なものを嫌悪するくらい欲望が弱体化したのではないかとも思える。 いずれにしても個人的にはあまり直線的で露骨な表現は好まないし、やはり少し匂わせるとか暗喩とかさりげなくとかの表現も逆に人間の隠された欲望を逆に増幅して表現するのではないだろうか。 映画などでも、強い悲しみの表現よりも抑制された感情表現の方が、例えば大声で泣き叫ぶよりはるかに悲しみの深さを感じさせるものだ。 両親を幼い時に亡くした少年が、葬式のときに正座して涙をこらえて歯を喰いしばっている姿など、大泣きしている他の親族などより深い悲しみが感じられて、人目にも好もしく情感を高めるものなのだ。 以前にも書いたが、欲望の表現と「品」との関係では、やはり抑制する程上品であり、露骨過ぎる程下品となる・・・という原則があるような気がする。 ただし、抑制しすぎると逆に下品になる。 それは、強く抑制しなければならない程その欲望が激しいのですヨという逆の意味の無意識的な露骨さの表現と言えるからではないだろうか。 件の「赤毛のアン」であるが、上品ぶった下品な隣家の小母さん達を直言でやっつけるシーンがあるが、主人公の「アン」もやはりどちらかというと現代の基準から見るとかなり上品ぶっているのであるが、少なくとも露骨な欲望や感情は殆どが出て来ないし、住んでいる土地の美しい自然や暖かく美しい心の人々を情感豊かに描いてあって、全体としてチットモ露骨でない抑えた表現が多いので、安心して読める物語となっている。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック 濱田朋久 |