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■ 優柔不断の功罪 | 2008. 7.11 |
最近明瞭と気づいたことであるが、優柔不断の一番の害は時間の喪失である。 時間の喪失とは、もっと直截的には人生の喪失となる。 小さな優柔不断でも意識してやめていけば、普段の日常生活でもかなりの時間を創出、捻り出すことができる。 まず朝の身づくろいである。 仕事の準備である。 サッサとしてしまえばとても優雅な朝のひとときを過ごすことができる。 今夜は本屋に寄ったが、サッサと選んで買うか買わないかを決定すると、それだけでも30分から1時間は有益な夜の快適で自由なリラックスタイムを得られる。 決める 始める これらのメリットこそ豊かな日常のファーストステップにちがいない。 何と55才までこのことを知らなかったなんて・・・。 先日、或る占いの先生に自分の生年月日と姓名の判定をしてもらったとこころ、「優柔不断」であるそうな。 そのものズバリを言われると、当っているだけに少し落ち込む。 それはまず罪悪感だ。 自分の不決断とか優柔不断によって傷つけてしまったのは、当然ながら身内の家族が一番であるが、親しい友人達にも正直なところずい分と迷惑をかけた気がする。 それらの人々の重要な人生の時間を空費させてしまったようなような気がして相当に気分が落ち込んでしまうのである。 ただ意外なことに、この優柔不断も良いリーダーシップにつながり得ることがある。 それは「他人が決める」ことを促進するということだ。 つまり、自然に決断という大事な権限が幹部や部下や現場の人々にドンドン委譲させていき、全体としてメンバーのリーダーシップ能力が自然に高まっていく。 このような変わったリーダーシップのやり方は多分に老荘的とも考えているが、筆者の思い違いかも知れない。 いずれにしても優柔不断でだらしのないリーダーというのは、案外人が育つように思える。 例えば筆者の父親であるが、とても優柔不断で考えすぎで臆病で繊細で、その点ではその子供である筆者にソックリであるが、母親という偉大なリーダーが育ったし、とりあえずバカ息子ながら何とかいくつかの法人組織をグループに持つ「リーダー」に育つことは育ったと言えるかも知れないが、これも大きな勘違いかも知れない。 我ながら優柔不断というのは、実はそれ程自らの性格として理解はしていても修正する気はこれまでアマリ無かったのであるが、この章の冒頭に書いたように「時間を捻出する」という実効が早い決断によって生じるということを我が頭脳に明々と認識できたので、今日この時から即断即決を心がけようと考えている。 いつまでつづくか分からないけれど・・・。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック 濱田朋久 |