コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 愛子さま2008. 7. 3

こういう話題は、女性が好きだそうである。
女性向け週刊誌にはこのようなロイヤル・ファミリーについての情報が必ず載っていて、男の自分としては少々奇異である。
たまたま行きつけの喫茶店で、ニンニクカレーなる特製のランチを食べながらテレビを観ていたら、表題のロイヤル・ファミリーの注目の女性(?)愛子さまの成長した姿を見ることができた。
心の内に理由のない不思議な感動を覚え、そのことについてこれを書いている。

愛子さまのお顔は、子供の表情としては全く普通であるとも特別であるとも受けとれるものではあったが、何故か強烈な魅力というもの感じて見つめていたが、それは特にその目である。
眼眸、瞳である。
いつものように日本の天皇家特有の軽く微笑したおだやかな表情ながら、そこはかとない気品のただよう美しい目の表情であった。
好奇心いっぱいに見開かれたその目の奥には静かな落ち着きと子供らしい無邪気さとともに、奥深い「憂い」「悲しみ」のようなものが見てとれて、少しイタイケな印象を持った。
気のせいかも知れないが・・・。

普通の少女として生きていくことはできない身分というものは結構辛いものではないだろうか。
プライバシーというものは殆どなく、常に他の見知らぬ人々の注視を浴び、子供らしい悪戯とか卑しい言動とかを決して表に現すこともできず、それは表情にさえ出すことはできない。
もともと持っていない筈はない人間特有の心の奥底の闇や暗黒に封印をして静かに耐えている姿は少々痛ましくもあった。

このような心の忍従耐久の果てに人間の存在の「表」に出るものが高貴さというものかも知れない。
英国王室の人々よりも、日本の皇族の人々の高貴さとか気品とかについては一見した限りでは、我が日本国の皇室に軍配が上がるようだ。
逆に言うと、英国の王室の方がドロドロとした生臭い人間臭を嗅ぎ取ることがあるが、どちらが好もしいとは明瞭に言えない。
オランダ・英国・スペイン・デンマーク等々ヨーロッパの王室の人々の顔相には、いわゆる富俗層特有の傲慢と卑しさを時々感じさせられるので、件の愛子さまのたたずまいや全身にあふれている気品というものは少しく圧倒されてしまい思わず涙が出てしまった。

その日は丁度父の命日である6月30日の翌日で、本家である神社のお参りをしたが、その時にはこれまた不思議なことに生まれて初めて拝殿の前で手を合わせ頭を垂れた時に、やはり思わず知らずに落涙をしていた。
全く不思議な一日であった。

人間の高貴さというものの本質とは一体何かと考えてみれば、それは表面的には全く邪気の無い明るさであり、深在的にはやはり人間の存在に対する深い悲しみとか憂いのようなものであり、その憂いは何かと問われれば、魂の修養の為に生れ落ちた人間の娑婆というものの苦しみとか悲しみへの深い共感、即ち慈悲心のようなものの姿や形や行動を顕現したもののような気がする。
自分自身の子供や多くの他の人の子供達の姿と重ね合わせてみると、さらに説明の出来ない哀切にも似た感情がこみ上げてくる。
愛子さまがそんなことなどを考えているのかいないのかわからないけれども、愛子さまの様子をテレビで久しぶりに拝見した時の自らの心のあり様を少しつづってみた。

ありがとうございました

追記@
こうして考えてみたので、世の女性達のロイヤル・ファミリーへの興味の理由が少し理解できたような気がする。
それは恐らく女性特有の心の底に潜む家族愛というようなもの投影であろう。
いわゆるゴシップなどのような少々品のないレベルのものと根を同じくする「愛の生活」の投影であり、憧れであり、自らの生活に実感を得たいという欲求の表れではないかと勝手に考えている。

追記A筆者はロリコンということは決してないが、少女というもののある種の神々しさ、その深い深い人類にとっての男とはちがう可能性についてはあらためて畏敬を払わなければならないような心持ちを抱いた。

追記B
昔は田舎の家に往診に行くとよく皇室の写真が貼ってあったが、あれはどういう意味があったのであろう。
家族というものの目標がそこに存するのであれば、極めて好もしい習慣なのではないだろうか。

たくま癒やしの杜クリニック
濱田朋久





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