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■ 強迫神経症について2008. 6.29

帝王学にひきつづき色々な偉い人や成功した人々の伝記や評伝を見たり聞いたり読んだりすると、皆さん殆ど強迫神経症ではないかと思えるような気質の持ち主であるような気がしてこの項を書いている。

強迫神経症というと強烈なこだわりがあって、例えば何かに触れた後に「手を洗わなければ気がすまない」とか「畳のヘリを踏むのが耐えられない」とか「本を整理しなければ気がすまない」とか「台所を片付けておかなければ気がすまない」とか、日本人とかドイツ人とかにはこのようなどちらかというと生活上好もしい強迫的な行動についてのこだわり、執着が多いようだ。
このような強迫行動が何故人間に起こるかについては精神医学的には色々と考察されているが、恐らく根底に存する感情は「恐れ」「恐怖」であるが、それはもっとつきつめていくと自らの存在のあり方に対する不安でそれがなくなれば自分のアイデンティティーが失われるような感覚であろうと思えるので、或る意味でそれは「依存症」と呼んで良いかも知れない。
その「行動」に対する「こだわり」や「執着」がその人の存在について必要不可欠というような強烈な思い込みなのであろう。

「人間は習慣のドレイ」だそうであるから思考習慣と感情習慣の結果としてそれがドンドンエスカレートして神経症と呼んでも良いような「精神的な苦しみ」になった状態を強迫神経症と仮定するなら、人生にとって望ましく好もしく結果としてそれが人生に福音をもたらすような神経症ならば、多少の苦しみが付随したとしても上手に生活に取り入れて自らの生活の向上に役立てたらと考えるのだ。

最近のやや強迫的行動というと一番は朝の体操と墓参りと夜の執筆と仕事となっているが、近頃はこのような強迫行動の種類が増えてしまって日常生活の自由でのびのびした時間を奪われている気もするので、先日一日だけすべてのこの一連の儀式のようになってしまった行動を試しにやめてしまったところ、自由でのびのびとした気分を味わうかと思いきや全く逆に精神的な別の強迫観念が生じてしまった。
それは漠然とした逆のカタチの対象のない恐怖である。
生活全般、人生全体に対する生とか死とかの恐れのようなものが、いつも儀式めいた強迫行動が生や死への恐れを薄めていたことに気づいたのだ。
これは精神科を標榜しているドクターか心理を勉強している人々なら少し共感してもらえるかも知れないが、人間の行動の習慣的・無意識的なものはすべてこの生と死への漠然とした恐れ・恐怖から逃れる為にあるのではないのか・・・と考えている。
要するに自分の人生と直面したくないのだ。そのような人生の苦痛から逃れる為に多くの人々はできるだけどうでも良いような娯楽や遊興や、お笑い系のテレビ番組に走ってしまうのだ。
そう考えると人間の集団的、流行的な行動全体について何かしら物悲しいなぁという感覚を持ってしまう。
豊かな国々に住む豊かな人々の連日の祭りのような日常を見ていると、特にそう感じてしまう。

このように考えてくると、強迫神経症というものはそれを持っている人をしていわゆる正常な人々の無意識的な常識的行動よりも少し研ぎ澄まされた行動傾向を生じさせるので、逆に人生にとっては好もしいものと思える。

だから、いわゆる成功者と言われた人はこの強迫的行動というか生活上も仕事上も自分なりの儀式というものを一般の人よりもたくさん持っていて、例えば野球のイチローとかバスケットボールのマイケル・ジョーダンとかにはそれをよく観察発見することができる。
イチローの道具へのこだわり、バッターボックスに入る前の一連の決まりきった行動の恐ろしいまでの神事か仏事のようなワンパターンさみたいなものは、一般人の我々にも応用できるかも知れない。

追記
個人資産が数千億円とも言われるジョルジオ・アルマーニという世界的ファッション界の大御所のイタリア人は、この強迫神経症・こだわりのカタマリのような人であるが、このことについては後述したい。
現代の経済的社会的に成功した人の最も典型的なカタチを見ることができる。

ありがとうございました

たくま癒やしの杜クリニック
濱田朋久



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