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■ 季節の音 | 2008. 6.28 |
今年も早6月下旬となった。夏とは言え、肌寒い日がつづいている。 入梅もしているから当然ながら連日の雨模様。 湿った空気は、実のところとても気持ち良いが、どこかしら奇妙な感じのする6月であるなぁと思っていた。が、それは音であった。 こちらは田舎であるから、季節毎の虫の声を明々と聞くことができるが、今夏は蛙の声が殆どしない。 窓を開け放っても聞き取ることができない。 クルマの走行音と風の音と、クーラーの微かな振動音くらいである。 湿った夜気の遠くから街のざわめきが少しだけ響いてくるだけである。 季節の音は、いつも心をやすらがせてくれる。 真夏の蝉の声、秋の虫の声、冬は概して無音であるけれど、春夏にはどうにも蛙の声を聞きたい。 何かしら奇妙な心持ちを抱いた第一の原因は、この蛙の声ではなかったのかと勝手に得心しているところである。 自然の音は心を癒やすと言われているが、確かに不気味な風の音というのもあるが、地震の時の地鳴りとうのもあるが、こずえを鳴らす涼風とか川のせせらぎとか、波の音とか虫の声というものは、人間にとって心地良いものであると思う。 特には日本人には虫の音は欠かせない。 昔の西部劇なんか見ると、夜は必ず虫の音が入れてあるが、昔のアメリカ映画では昼に撮影した画像に青の薄幕を入れて月光の夜を創り出すように、この虫の音も夜を演出するに一役買っているらしい。 幌馬車の側で、拳銃を下げたテンガロンハットのカウボーイと金髪か赤毛のロングヘアーの腰のイヤにくびれたロングスカートの女性とかがたたずんでいるだけで、ロマンチックな昔懐かしい情景となっている。 こういう心象風景は、子供の頃に焼きついているのであろうけれど、そのような画像や昔の映画は最近メッキリ見かけなくなったので少し寂しいが、今は妙にリアルで生々しく露骨でありありとしたものが好まれるらしく、男優さんも女優さんもそれなりに魅力的ではあるけれど、何かしらの憧れとか羨望とかの心情を刺激するものではなくなってしまった。 別に蛙の声が聞けなくても生きてはいけるが、何となく心寂しい不気味な初夏の無音の夜だ。 追記@ 虫の声というのは欧米人には雑音に聞こえるらしい。 彼国の人々にとっては、左脳的に虫の声が入ってくるそうだ。 日本流の母音を中心とした響きがそのようにさせるという説もあるが、真偽の程はさだかではない。 追記A 日本語の愛というのは英語でIであるが、これは奇妙な言語的一致である。 というのは、愛とI(私)というのは実に全くひとつであるからである。 自分というものを精神的につきつめていくと、愛そのものであることに気づく。 男女の愛の結実したものがまさに自分というものであるし、存在論的に全く自己というものを分析してみても「愛」と呼ぶしか表現しようがない。 いつも同じセリフであるが・・・。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック 濱田朋久 |