コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 医者の息子2008. 6.24

私も医者の息子である。
それも開業医の長男長子であるから典型的ないわゆる「医者の息子」の筈であるが、そのことで良い思いをしたことは今に至るまであまりない。

小学校時代は、自分の家には当時メズラシク自家用車があったが、それも子供のぜいたくというのは殆ど無かったのは或る意味今となってはとても有難かった。
半数くらいの同級生たちが自転車を乗りまわしてた時、とうとう小学校6年の卒業まで自転車というものを買ってもらえずに過ぎた。
また、野球で使うバットとグローブも新しいものは買ってもらえず、いかにも古ぼけたおもちゃのグローブで何年も我慢したような気がする。

同級生にやはり開業医の息子がいて、一度家に遊びに行った時にいかにも重厚な趣きのある父親の先生の書斎とか、子供にとっては宝の蔵のようなありとあらゆるオモチャの山に囲まれた子供部屋を見せられた時には、自分の父親とその同級生の父親が同じ開業医であり、二人ともその長男であることについて思いを至したことはなく、何か別の職業ではないかと思っていた。
それ程木造の自分達の家が、どこかみすぼらしくぜいたくな感じのしないものであったのだ。
その上何も買ってくれない親となれば、子供としては医者の息子というものが少しも良いものではなく、いじめられたりはなかったけれどなんら特典とか特権とか優越感とかを感じる境遇ではなかった。

当時はクラスで一番の金持ちは自転車屋の息子で、次が材木屋の息子で、次はキャバレーのオーナーの息子と思っていたが、それは今思えば、ただ派手な暮らしぶりと立派な邸とか子供のオモチャとか、実はどうでも良い基準で富を測っていたようなものであったのであるが、子供心に自分家は貧乏では無かったけれど、金持ちでもなかったという平々凡々たる庶民の生活そのものであったという実感がある。

父親は少し夜の街をツムギの着物を着流して蕩尽すような派手好みではあったけれども、母親と言えば近所の魚屋のおばさんとか床屋の奥さんとかの方がはるかに小奇麗に感じるような地味な風采の女性で、旅館の女将さんなどとひきくらべると何とも見栄えのしない母親だなぁと思っていた。
若い頃の写真は我が母ながらとても美人で写真を見る限り美人ではあったようであるが・・・。
父親はサングラスをかけて、アロハシャツに長靴を履いて夜の街にくり出し、真夜中にいかにもお水関係のいなせなお姉さん達に両脇をかかえられながら帰宅し、母親と近所中に聞こえてしまうほどのけたたましい大声で派手な夫婦喧嘩を毎夜のようにくり返し、子供の自分達にとってはまるで火宅の家であったので、度々家出をして近所の原っぱで寝ていたことを思い出す。
父親の書斎というものも、障子に仕切られた4畳半くらいの書庫のような畳の部屋で、それも父の晩年・6年前くらいに建てまして出来たもので書斎と呼べる程立派なものではなかった。

子供心にとても重苦しかったのが、医者の息子長男であるから、周囲の大人達がすべて口をそろえて「ボクは将来後継ぎ」だネとか「医者になるには一生懸命勉強せんとなぁ」とか何かにつけてプレッシャーをかけられるので、大学の医学部に入学するまで年がら年中重苦しい医者になるための勉強への圧力と、小学校低学年から大学卒業まで心の底で戦ってきたような気がする。
このあたりの感覚は「医者の息子」で医者になった人でなければ、理解できない感覚であろうと思う。
小学校時代は、成績も殆どふるわず中くらいであったから、父親から「バカ息子」呼ばわりされたり、「母親がバカだったからこんなバカ息子が生まれるんだ」などと言われて育ったので、自分はとんでもない愚者として生まれて来て、さらに医者にならなければ生きていくことはできないという不幸な存在であるなぁといつも自分のアタマの悪さについては劣等意識を持っていたものである。

父親は陸軍士官学校という、当時では帝大(東大や京大)、海軍兵学校の次にムズカシイ学校にストレートで合格した秀才であった上に、終戦後に鹿児島医学専門学校というやく120倍の倍率の試験を合格した人であったので、自らの息子のバカさ加減についてはホトホトあきれ果て、時には絶望しかけていたのかも知れない。
それでも時々母親が「アンタは頭は良いハズだから」と耳元で囁いてくれたり流石の父親も自分の息子を他人に紹介するときには少し虚栄的に「出来の良い立派な息子」として紹介し、自慢してくれたりするものだから、自分は一体バカなのかリコウなのかわからない混乱と複雑な困惑を胸の内に抱えたまま成長して来て、新設の私立大学の医学部を卒業して何とか医師国家試験に合格して晴れて医者になった時には、本当に心の底からホッとしたものだ。
「やったぁ」という達成感より、ひとつの戦いが「やっと終わった」という心の底からの安堵感というのが正直な気持ちである。
丁度終戦直後の日本人のようにある程度虚脱したような状態であった。
高校生の時は、一時期グレてしまってシンナーを吸ったり、暴走族やら町のチンピラなどとの付き合いなどもあって「オレは清涼飲料水の販売員になる」と親にも公言していたので今でもアメリカに本拠のあるその会社、赤い車がトレードマークのその会社のドリンクを飲むとフクザツな気持ちになる。

良かったのか悪かったのか、今でも自分が医者になったことを信じられないので、夢でないかと疑って映画のような頬をつねって夢でないことを確認してみたりするが、こういう心持ちは自分自身を少し心豊かにする。
それは現在の状況がどれほどひどいものであっても、あの悲惨なチンピラ時代からすると夢のような身分であるし、それが自分の実力ではない親の愛情と期待と運とで実現した「医者という職業」であるので、親への感謝は毎日毎日一時も忘れたことはないし、その見返りとして仕事をさせてもらっていることに毎瞬非常に幸せを感じて生きている。
アリガタイ、アリガタイ。

ところが私の友人の医者の息子の何人かは給料が安いだの、仕事が忙しいだの、はたまた暇だのキツイだの従業員がバカだのと不平不満たらたらの人もいて、この人達は浮き草のような人生を歩んでいるか中には死んでしまった人もいる。
やはり不平不満は良くないみたいだ。

医者の仕事をできるだけで幸せであるのに「先生」と呼ばれ、数ヶ月のただ働きも安月給時代も苦痛と思ったことはなく、給与が安くても高くても同じ余ように淡々と楽しく仕事をしていけるのも、ぜいたくを殆どさせてもらえなかった激しい火宅の家と、チンピラ時代に手を差し伸べてくれた両親の愛情と信心のお陰にあると、毎日の墓参りでの御礼は日課となっており、親やご先祖の恩栄を忘れたことは一度も無い。

医者の息子も辛いものです。
そして私のように厳しく育てられた人間はまだ幸福であるが、甘やかされてぜいたく品をいっぱいで育った医者の息子ほど哀れなものはないなぁと思える。
幸福にも医者になれた息子も不幸にしてなれなかった息子も。
医者になった息子は、その考え方の未熟さゆえに、なれなかった息子は周囲の冷淡な目に。
いずれにしても医者の息子というのは意外に大変なんです。
アタマのメチャクチャいい人は良いですけど・・・。
ただし、アタマが良くて医者になった人は傲慢で人を見下す傾向があり、最終的に人間全体として未熟な人の場合、総合的にはアタマの悪い人の部類に入ってしまって結局大成できないことが多い。

医者で偉人になった人は、案外と少ない。
それはその心労と学歴と周囲の目がそうさせるのであろうか。

ありがとうございました

たくま癒やしの杜クリニック
濱田朋久


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