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■ ホラ吹きのすすめ | 2008. 6.10 |
ホラというのは大型の貝で、ラッパのように吹いて遠くの人へ何かの報せをする為の道具で、それを吹くのが「ホラ吹き」と呼ばれるが、普通「大言壮語」をして人を煙に巻いたり、混乱させたりする自慢して得意になっているような人を指す。 主に未来に向かって宣言されたような無害なホラはいくら吹いても良いような気がする。 その人物が、そのホラ話を実現させたならば途端に「成功者」となり、運悪くそれが実現しなかったとしてもただの「ホラ吹き」と周囲の一部に、人に言われるだけで殆ど実害は無いことが多い。 ただの「ホラ吹き」と「成功者」を分ける要因は何かと言えば、それは「粘り」ではないかと思う。 「粘り」というより「クドさ」かもしれない。 毎日毎日同じホラを吹いていて実現してしまったナンテはなしは結構聞かされる。 「俺は社長になる」 「私は市長になる」 「オレは世界一の○○になる」 一見大言壮語に聞こえるが、月に歩いていくよりも可能性が絶無という程でもない。 というのも、何をやってもうまくいかない人というのは、この「粘り」が一番で、もうひとつは「工夫力」「方向性」の問題だと思える。 この「粘り」はどうやって身につけるかというと「習慣化」させることで結構カンタンに手に入る。 「人間は習慣」のドレイであるそうで、その人の習慣は良きものであれ悪しきものであれ、その人の人生に多大な影響力をもたらすから余程注意しないと、悪い習慣のドレイになった人生が滅茶苦茶になるということがある。 健康上の問題だけでなく、人生全体の最も重要な生活習慣は「食生活」であるが、この量と内容を制限ができれば人生を殆ど全部支配できる程の力を身につけたことになるそうである。 まさに「食は全てを制する」であるが、このことはあまり知られていない。 今は商業主義にまみれたメディアの力のお陰で、人々は何かし色々な変わった物を食べさせられるべく誘導されているようなフシがあって、カラダのもココロにもあまり良くない食品を色々と食する羽目に陥っているようだ。 それと言葉の習慣だ。 同じ善なる目的で、結果も周囲も自分も幸福で豊かになるようなホラなら毎日毎日クドクドしく言葉に出していれば、それは自然に実現するのではないだろうか。 何せ言葉には強大な力が潜在しているらしい。 普通の状態で油断していると、人間というものはついつい朝から晩まで不平不満や、何かしら欠けたること、悪点や欠点、悪事などに意識が向きやすいように見える。 「あ〜あ(良いタメ息)今日はいい天気だなぁ。キモチイイ〜、シアワセ〜」などと口走る人は殆どいないかわりに、 「あ〜あ(悪いタメ息)今日は雨だなぁ。ユーウツ、仕事に行きたくないなぁ。洗濯物が乾かなくてイヤだなぁ〜」 ナンテいうセリフは前者よりはるかに良く聞かせられる。 同じようにいつも感謝の言葉を口走る人よりも、いつもいつも何かしら不平不満を心に思い愚痴を言ったり、汚き事を言ったり、その為に攻撃的になったりする人も山のようにいる。 「生きているだけで幸せではないか」 「三度のごはんが食べれて、屋根のある家にすんで・・・」 なんてドンドン自らの要求水準や満足の基準を下げていけば、幸せな気分になることマチガイナシだ。 何もありがたいこと、感謝すべきことがないという人は試しに30秒から1分くらい息を止めてみられたら良かろうと思う。 空気というもののありがたさ、おいしさがあらためてしみじみ感じることができるであろう。 どんなものでもできるだけ当り前でありきたりなものを失ったと仮定してみられたらこのことが理解できるかもしれない。 例えば足 例えば手 例えば目 例えば耳 例えば言葉 例えば生命 例えば水 例えば空気 例えば食べ物 色々な事情からそれを失った人々がいるが、それらの人々の方が何故か感謝の念もホラ吹き度合いも大きい気がする。 とにかくネガティブなことや、愚痴や泣き言よりも善良で素朴なホラ話やヨタ話の方が心理的にも肉体的にもはるかに健康的であるかもしれない。 ついでにひょっとしてその善きもの、望ましい状態が実現して良き物を手に入れられたとしたらとてもラッキーでハッピーなことだ。 追記 要は意識を陽性のものに向けるだけである。 その上で当り前でささやかなことに感謝することである。 今も筆者も嫌々始めたこの書き物も、字を書ける喜び、考える喜び、文章を完成させる喜び、本を出版して売れている夢に向かっている喜び、手が動かせると言う喜びを味わいながらこれを書いている。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック 濱田朋久 |